岩田屋本店新館の地に重なる「JOLK」の歴史 きらめく福岡文化を発信

「天神の過去と今をつなぐ」(10)岩田屋本店新館

 福岡市・天神の歴史秘話を紹介する連載「天神の過去と今をつなぐ」の10回目は、いよいよ岩田屋本店新館周辺に焦点を当てます。球場だったところが、昭和に入って日本放送協会(今のNHK)の福岡放送局(コールサインは「JOLK」)が立地。そこから、戦前も戦後も福岡の文化が全国発信されていきました。アーキビストの益田啓一郎さんが、現在は「きらめき通り」沿いに立つ岩田屋本店新館の誕生までを丹念に案内します。

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 現在、岩田屋本店新館の立つ区画は、藩政時代は肥前堀の北側土手にあたり、道路も無く、家屋は因幡町筋(現在の天神サザン通り)側を向いて屋敷が立ち並んでいた。福岡城のお堀(肥前堀)は1909(明治42)年までに埋め立てられ、1910(明治43)年の「第13回九州沖縄八県連合共進会」という大イベントが終わると、一帯は広大な空き地となり、市民には「バッテン運動場」と呼ばれていた。

 その名は福岡で最初にできた草野球チーム「ばってん」に由来するという。専用の球場が無かった時代。草野球だけでなく、九州帝国大学野球部などの学生大会、大名小学校の運動会も開かれていたそうだ。

 福岡市発展につながる放送局誘致

 バッテン運動場の北端・薬院ほりばたの風景は昭和に入って激変する。そこは今の岩田屋新館の入り口付近で、1930(昭和5)年12月6日、日本放送協会(今のNHK)福岡放送局が開局した。

 同局は、1928(昭和3)年9月16日の開所当時は、熊本放送局の演奏所の位置付けだった。同年1月末、鉄筋コンクリート2階建ての演奏所が完成した。内部には大小二つのスタジオを持ち、福岡初の冷房付き施設だった。

福岡市天神町に完成した福岡演奏所=1929年末ごろか※本紙データベースより

 薬院堀端が演奏所の設置場所に選ばれた理由は、九鉄福岡駅=現在の西鉄福岡(天神)駅=の存在が大きかったそうだ。西公園や平尾など複数案があったというが、スタジオ収録の利便性を考え、天神地区の空き地が選ばれた。

 演奏所なので、当初は放送ができたわけではない。昔から「芸どころ博多」と言われたように筑前琵琶や博多にわかなど、ラジオ番組のモチーフとなる芸ものが地元で根付いていたことから、熊本放送局のサブスタジオだった。

 開局までには曲折もあったようだ。明治30年代に帝国大誘致で競った熊本と福岡が、今回も九州ナンバーワン都市の象徴である放送局を巡り、壮絶な誘致合戦を繰り広げた。

福岡放送局の電波塔=1930年の放送開始ごろか※本紙データベースより

 当時の福岡市の人口は約15万人。誘致合戦で福岡優位となった時期もあったが、放送局を管轄するていしん省があり、地理的にも九州の中心である熊本に放送局が、福岡は演奏所がそれぞれ設置されることでいったん決着。ところが、その後も福岡側は演奏所から放送局への働き掛けと実績作りを行い、わずか2年後に放送局への昇格を果たした。

 無線電話(ラジオ)の研究は大正初期から国内各所で熱心に行われ、福岡でも大学や新聞社を中心に進められた。放送局の誘致合戦の際、福岡から新聞社や鉄道会社など八つのグループが事業主体として別々に名乗りを上げている。

 福岡で最初にラジオ放送の公開実験を行ったのは、1925(大正14)年2月11日の九州日報社(西日本新聞社の前身)。同年3月に、国内初のラジオ本放送が東京放送局で開始される直前のタイミングであり、話題性も十分だった。

ラジオの公開実験を大々的に報じる1925年2月12日付九州日報の紙面

 公開実験は、九州日報本社があった中洲・中島町から電波を発し、九州劇場(東中洲)と大博劇場(上呉服町)の2カ所で受信。雑音ばかりだったが、市民が初めてラジオに触れた瞬間だった。九州日報社の新聞記者を経て執筆活動を始めた作家・夢野久作が代表作「ドグラ・マグラ」の原型となる創作を始めた頃だ。

 同年5月には、ライバル紙だった福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身、昭和17年に九州日報社と合併して西日本新聞社となる)も、新緑きれいな西公園で公開実験を実施。尺八や三味線などの演奏、浪花節、筑前琵琶の演奏などが放送されたそうである。

全国的なヒット曲を生んだラジオ放送

 演奏所の開所当初、専属職員は逓信省から派遣された所長と現地採用の井上精三だけ。番組制作は井上1人で、企画から担っていたという。井上は引退後、「福岡町名散歩」「博多風俗史・芸能編」「博多にわか読本」など数多くの郷土研究本を書き残した。

 井上がラジオ番組で仕掛け、全国的に有名になった曲に「酒は飲め飲め~」で始まる「黒田節」がある。「筑前ちくぜん今様いまよう」という古謡のタイトルを変えて、インパクトを付けてラジオで放送し続けた。当時、地方局制作の番組も全国放送に乗る機会は多く、黒田節は全国的なヒット曲となる。

井上精三さん=1985年10月※本紙データベースから

 博多にわかなどの郷土芸能も積極的にラジオ番組化し、福岡放送局エリアの民謡や古典芸能なども紹介。炭坑節などのヒットの陰にも井上の存在があった。地元のアマチュア演奏家や歌手を紹介するなど、現在に至るラジオ放送の原型を築いた。

 余談だが、井上は西公園で放送された福岡日日新聞社のラジオ放送公開実験などにも学生として関わった。西洋音楽の紹介コーナーでピアノ伴奏役だったそうだ。父親が新しもの好きで、ラジオ放送開始前から自宅の庭に受信アンテナを設置し、第1号の契約家庭だったというから、ラジオの申し子と言っていい生い立ちである。

戦後復興と天神躍進も支えた

 戦時下でのラジオ放送は軍部の統制下に置かれた。福岡放送局も西部軍司令部の監視下で戦意高揚番組の制作や、大本営発表など軍部の報道が中心となった。

 ラジオドラマや演奏する曲にも検閲が入り、自由な番組制作はできなかった。戦争末期になると芥川賞作家・火野葦平をはじめとする九州文学の同人・作家らも西部軍司令部の報道部員に召集され、戦意高揚ラジオドラマの脚本や日々のニュース報道の原稿書きに追われたという。報道部は西日本新聞社内に置かれていた。

 終戦後、天神地区一帯は福岡大空襲により焼け野原となったが、福岡放送局の建物は無傷だった。占領軍の監視下ではあったが、ラジオ放送から戦争絡みの情報は消え、次第に日常を取り戻していく。

 福岡放送局の北側にあった旧福岡高等女学校(空襲当時は県立福岡女子専門学校が入居)跡地には、西日本新聞社の後援を受けて1946(昭和21)年、「西日本公正商店街」が発足した。戦後初の復興商店街「新天町」の誕生である。

1947年ごろの新天町※本紙データベースより

 福岡放送局は、新天町に設けられた新天ステージでたびたび、街頭録音や公開生放送を行った。新天町側も放送局の地元商店街であることをうたい、双方がタッグを組んで復興状況と天神の魅力について、ラジオから発信した。

 戦後復興期に福岡放送局が果たした役割は大きい。1956(昭和31)年4月にはテレビ放送も始まり、中継車や設備が不十分だった時代、街頭中継の多くは天神地区だった。放送局そばにある福岡スポーツセンターでは1957(昭和32)年から、大相撲九州場所も始まり、福岡放送局が全国中継する。結果として、天神の知名度アップに大きく貢献した。

福岡放送会館落成当時のNHK福岡放送局=1959年11月※著者所蔵写真

放送局から百貨店へ

 福岡放送局は周辺の土地を取得し、新築の福岡放送会館(新館)が1959(昭和34)年10月に落成した。この時、放送局に敷地を提供した地主の一人が隣接する代替地にビルを建て、そのビルで1970(昭和45)年に開業したのが、伝説のライブ喫茶「照和」である。

 井上陽水やチューリップ、甲斐バンドなど数々の伝説的なミュージシャンやバンドを輩出してきた照和。当初は現在のような地下ではなく、地上のレストラン喫茶から始まったそうだ。

往時の喫茶店「照和」。左奥にはNHK福岡放送局の鉄塔がかすかに見える=1980年※本紙データベースから

 福岡放送局は施設の老朽化や一帯の再開発に伴い、天神からの移転を決断する。中央区六本松にある現在のNHK福岡放送センタービルが落成したのは1992(平成4)年11月、翌93(平成5)年2月15日から運用が始まった。

 それに伴い、空き家となった旧放送会館の建物は1995(平成7)年夏にあったユニバーシアード福岡大会の事務局として2年ほど利用された。私は当時、ゼンリン子会社のディレクターとしてユニバーシアードの公式マップや選手誘導マップ制作のため、旧放送会館の薄暗い建物に通った記憶がある。

「カリテン」時代のNHK放送局跡地。左は岩田屋Zサイド(当時)=1997年※本紙データベースから

 1996(平成8)年には、放送局のシンボルであった送信アンテナも解体された。旧放送会館はその後、西鉄が再開発していたソラリアターミナルビルとソラリアステージビルの建設に伴う福岡西鉄名店街の仮店舗(にしてつカリテン)となった。ソラリアステージビルが完成する1999(平成11)年春まで使用された。

 放送会館の跡地に現在の岩田屋新館が完成したのは、2004(平成16)年3月2日である。

2004年3月、天神の新しい顔としてオープンした岩田屋新館※本紙データベースから

 今回の執筆にあたり、戦後の住宅案内図「福岡地典」などを細かく調べ直した。すると、1955(昭和30)年の地図には、現在の新館が立つ西側半分には「岩田屋倉庫」の文字があった。当時、岩田屋は大規模な増床工事に入る頃で、竹中工務店の資材置き場を借りて倉庫としていたようである。

 放送の歴史を刻んだこの地は、百貨店となった今も、放送局用のサテライトスタジオがある。人が集い、情報発信する中心地としての役割はこれからも続く。

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 益田啓一郎(ますだ・けいいちろう) 1966年大分県生まれ。ゼンリン子会社を経て2000年に独立後、社史・地域史の執筆、編集に携わりながら10万点超の古写真と絵はがきを収集してきた。近年では西日本鉄道(福岡市)創立110周年史の執筆、「にしてつWebミュージアム」を監修してきた。博多・冷泉地区まちづくり戦後史、博多祇園山笠「西流五十周年史」など、地域の近現代史の記録活動も継続。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、地元テレビ局、映画、舞台などの時代考証や企画、監修も担ってきた。著書に「ふくおか絵葉書浪漫」「伝説の西鉄ライオンズ」など。

肥前堀埋立地(黄色帯)と福岡演奏所など。 1928年の写真を加工※著者所蔵写真

 次世代の姿へ生まれ変わりつつある福岡市の中心部、天神地区。新たな都市空間と雇用を生み出す福岡市の「天神ビッグバン」プロジェクトがきっかけです。福岡をはじめ九州各地の「街」に関する膨大な資料を収集し、その近現代史を研究し続けているアーキビストの益田啓一郎さん(54)=福岡市=が、再開発エリアの過去と今をつなぐ歴史解説へ、皆さんをご案内します。 ※アーキビスト(Archivist)=文化、産業的な価値ある資料を集め、それらを意義付けしながら活用する人材。

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