飛ばない飛行機と走った電車 ど真ん中の雄「天神ビル」が導いた発展

「天神の過去と今をつなぐ」(11)天神ビル

 福岡市・天神地区の歴史秘話を紹介する連載「天神の過去と今をつなぐ」の11回目は、天神のど真ん中、茶色い外壁で重厚な「天神ビル」を取り上げます。現在の天神地区の発展は、天神交差点が誕生し路面電車の乗り換え地点となったことが起点でした。明治時代は飛行機が展示されたり、戦前から天神で最初のオフィスビルになったりと街の“大黒柱”と言える存在。戦後に建て替えられた新「天神ビル」まで続く物語を、アーキビストの益田啓一郎さんがつづります。

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天神交差点誕生から110年

 今から110年前の1911(明治44)年10月2日、現在の渡辺通りが開通し、博多電気軌道が開業した。前年に開業していた福博電気軌道(現在の明治通り)と博多電気軌道の二つの路面電車が交差する場所には交差点が出来た。天神交差点の誕生である。

 現在の天神地区の発展は、この交差点が起点となっている。博多電気軌道を開業した渡辺與八郎は、交差点そばに「天神町(てんじんのちょう)」電停を設置。これが天神の名を冠した初めての交通拠点だった。

1937年ごろの天神交差点と東邦電力(旧九州電灯鉄道)ビル(著者所蔵写真)​​​​​​

 それを見た福博電気軌道の松永安左エ門は、乗り換えの利便性を高めるため、交差点の西側にあった「高等女学校前」電停を交差点近くに移し、同じく「天神町」電停と改めた。武家屋敷跡の閑静な場所が、一躍脚光を浴びることになった。

飛ばない飛行機を展示

 明治末から大正初期、天神ビルがある土地は板塀で囲われた空き地。なんと飛行機が1機、ぽつんと置かれていたそうである。

 ただ、飛行機といっても、一度も飛ぶことのなかった木製の骨組み構造。さしずめ大型の飛行機模型といった代物だった。その名は「舞鶴号」。空き地での展示は、福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身)の企画だった。

 舞鶴号は、日本の航空業界の草分けとして徳川好敏陸軍大尉と並び称された、日野熊蔵陸軍少佐が製作した機体である。天神交差点の誕生から2カ月後の1911(明治44)年12月、日野が福岡の歩兵第二十四連隊付で転任してきたことをきっかけに、福岡における「航空思想普及」が目的とされた。ライト兄弟が世界初飛行に成功してからわずか8年後である。

 熊本県人吉出身の日野は、それまで軍用気球研究会という陸軍の特別プロジェクトを率いた。福岡赴任前の1910(明治43)年春、現在の天神地区南側一帯であった第13回九州沖縄八県連合共進会でも、気球のデモンストレーションに携わっている。

1910年の第13回九州沖縄八県連合共進会に登場した「空中飛行機」(気球)(著者所蔵写真)

 日野は福岡に着くと、早々に航空機「日野式三号機」の設計に没頭し、それを福岡日日新聞社が大社告を掲げて応援した。

 〈飛行機時代きたれり。幸いわが社は今回、先覚者日野少佐の赴任を機とし、飛行機飛揚ならびに同模型展覧会ならびに模型飛行機競技会を主催し、もって斯界(しかい)の機運を激揚せんとす〉〈発動機全部を市内で製作するに至りたるは、本社のさらに喜びとするところ〉と掲げ、鼻息の荒い激奨ぶりだった。

 それもそのはず、それまで国内で飛行に成功した機体は全て外国製。国産初の飛行成功を目指し、地元の技術を集結した一大プロジェクトでもあった。クランクは福博電車、シリンダーは大穂、クランクケースは斉藤、部品は児島・渡辺・吉富の各鉄工所で、組み立ては矢野製作所と紹介された。福博電気軌道の専務、松永安左エ門も本気で、資材や技術を提供した。

1912年2月29日付の福岡日日新聞に掲載された社告(本紙データベースより)

 機体はプロジェクト発足からわずか3カ月後、1912(明治45)年3月に完成した。木骨、絹張りの機体の全長は8メートル、翼9メートルで、銀色に輝く見事な出来栄え。福岡城の別名「舞鶴城」にちなみ名付けられた。

 機体はさっそく福岡連隊の招魂祭(現在の博多どんたく)で営門付近に展示され、見物客で長蛇の列ができる人気だった。

 その4月末、場外練兵場(現在の護国神社一帯)でテスト飛行大会があった。しかし舞鶴号は土煙を上げるばかりで一度も離陸することはなく、操縦した日野や関係者、詰めかけた群衆の落胆ぶりは目を覆うばかりであったという。飛ばない原因は、機体の重さに対するエンジンの馬力不足だった。

舞鶴号の見物に集まった人々=写真集「福岡100年」から

 舞鶴号はその後、前述の通り天神町の空き地に放置され、大名小学校に通う子供たちの格好の遊び場となった。一方で、福岡日日新聞社が仕掛けた模型飛行機競技会は、東京や鹿児島からも参加者が相次ぎ、現在の「鳥人間コンテスト」のような盛り上がりだったという。

 参加者が作った模型飛行機の動力の大半はゴムひも。ただ1機だけ、超小型ガソリンエンジン付きの模型飛行機で特別賞を受けたのが、後に現存最古の国産乗用車「アロー号」を開発する矢野倖一(矢野特殊自動車創業者)だった。

天神最初のランドマーク、九州電灯鉄道ビル

 1917(大正6)年7月5日、舞鶴号が展示されていた空き地に、大時計を構えた鉄筋コンクリート3階建て(地下1階)の九州電灯鉄道本社ビルが完成した。

 設計・施工は清水組で総建設費は当時の金額で38万円。エレベーターを備えるなど九州で当時、最新設備を持つビルだった。屋上の時計台は、天神町最初のシンボルとして長く市民に親しまれることとなる。

1917年7月5日、九州電灯鉄道ビルの竣工式の写真群から(著者所蔵写真)

 「福博電気軌道」を設立し、九州電灯鉄道の実質経営者となっていた松永安左エ門は、天神交差点付近の可能性にいち早く注目した人物である。地場大手の九州電力、西日本鉄道、西部ガスは松永が経営した企業の“子孫”だ。松永は戦後、全国9電力体制を導き「電力の鬼」と呼ばれたが、その活動基盤は九州電灯鉄道本社ビルを拠点に築かれた。

 松永は九州電灯鉄道の前身、博多電灯の開業以来ずっと福岡市の東中洲にあった本社を天神に移し、ここで指揮を執りながら北部九州一円に広がる一大電灯会社に成長させた。その経営手腕から、博多商業会議所の会頭や地元選出の衆院議員も1期務めている。

 さらに1924(大正13)年4月に開業した九州鉄道(西鉄天神大牟田線の前身)も同ビルを本社とし、当初は西中洲に置くことを想定していた福岡駅を天神交差点角地(現在の福岡パルコ付近)に変更。1922(大正11)年の東邦電力発足に伴い、福岡の地を離れた松永であるが、この決断がなければ、天神地区の今のような発展はなかったかもしれない。

1924年、久留米行き急行電車・九州鉄道天神町駅前(本紙データベースから)

戦災で焼け落ちた時計台と戦後復興

 東邦電力の成立後、九州電灯鉄道本社ビルは東邦電力福岡支店となった。1942(昭和17)年、戦時下の国策により東邦電力が解散すると、同ビルは九州配電本社ビルとなるも、1944(昭和19)年3月には賃貸ビルとして三菱銀行に貸与され初代「天神ビル」と名付けられた。

 三菱と松永の縁は古く、ビル完成時から一部を三菱銀行に貸与していたという。三菱グループの銀行・商社がテナントとして入居し、天神地区最初のオフィスビルともなった。

 1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲により、天神ビルは時計台が焼け落ちて内部も全焼したが、鉄筋コンクリート造りのビル自体は残った。焼け野原となった天神地区で天神ビルと岩田屋ビルが焼け残ったことが、戦後復興でも起点となっていく。

時計台が焼け落ちた天神ビル(著者所蔵写真、天神町発展会「天神町1910-1960」より)

 終戦後すぐ、天神ビルは九州大工学部の耐震検査とアドバイスを受けて内部補強が行われ、改めてオフィスビル「天神ビル」として三菱グループをはじめとする企業が入居した。

国内第2位の高層ビルとして完成

 西鉄ライオンズ日本シリーズで3連覇を達成した1958(昭和33)年10月、老朽化によるビル解体が始まった。朝鮮戦争をきっかけに復興スピードが加速した福岡市中心部は、慢性的なオフィス不足が生じて、満を辞しての再開発であった。

 再開発に際し、天神地区で1955(昭和30)年に誕生したまちづくり組織「天神町発展会(We Love 天神協議会の前身)」は、地下変電所の設置やNHK福岡放送局の入居などを提案。激増する電力需要に対し、特に天神地区への電力安定供給は必要不可欠だったのだ。

 この提言を踏まえ、1960(昭和35)年6月に完成した新「天神ビル」の地下2、3階部分には変電所が設けられた。11階建ての同ビルの高さは62メートル。当時のビルとしては、なんと国会議事堂に次ぐ全国2位。延床面積は神戸以西で最大だったという。

1959年、建築中の天神ビル(本紙データベースから)

 工事着手からわずか18カ月で完成した新ビルは、竹中工務店による「潜函(せんかん)工法」で建設された最初のオフィスビルでもあった。潜函工法とは、まず地下3階から地上1階部分を地上で造り、重みを利用してそのまま地下へ沈めるもので、都心部における地下掘削工事の課題をクリアできるメリットがある工法。沈める間にも地上部で工事が進められるため、工期も大幅に短縮できた。東京・霞が関などの高層ビル建設の先駆けともなった。

 ビル外壁には、茶褐色の有田焼のタイルが採用された。これは、後のイムズやソラリアプラザにも継承されるが、その先例は天神ビルだった。角に丸みを帯びたステンレス製の窓枠も特徴的である。

 ビル地下には、福岡で最初のレストラン街が設けられ、福岡ビル地下の飲食街とともに、福岡の食文化を全国に伝える場となった。水炊きの「新三浦」や天ぷらの「酒宇」など、開業当時から続くテナントも多い。

 11階の会議室に加えて、10階には文化サークルが開設されるなど、ビジネスだけでなく文化面での貢献もあった。屋上の展望台は完成当初、天神地区でもっとも高い場所。観光客がひっきりなしに集まったという。

1960年、天神ビルでの料理教室の様子(本紙データベースから)

松永安左エ門の遺産

 「TENZIN BLDG」。天神ビルのメインエントランスがあるビル東側の外壁には、こうローマ字でビル名が表記されている。今では「TENJIN」の表記が定着している。これは「天神」の名称を冠した最初のビルであることを示す一例と言えるかもしれない。

天神ビルのエントランスにある「TENZIN」の表記

 ところで、天神の可能性にいち早く目をつけた松永安左エ門がこの世を去って2021年で50年。10月9日から、福岡市美術館で没後50年の特別展「電力王 松永安左エ門の茶」が始まる。

 私はこの特別展に合わせ、「松永安左エ門と福岡の近現代史」という図版本を刊行することになった。特別展が始まる頃に完成し、美術館や書店に配本される予定だ。

 松永に関する本を執筆して分かったのは、「天神交差点のこの場所に天神ビルがあるからこそ、天神地区は西日本有数のビジネス街になることができた」という事実である。

2021年2月、天神ビル屋上から望む天神の街並み(本紙データベースから)

 周辺のビルが次々と再開発される中、いずれは天神ビルも新しいビルに生まれ変わる時が来るだろう。その存在感と果たした役割の大きさは、ほかのビルの比ではない気がしている。

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 益田啓一郎(ますだ・けいいちろう) 1966年大分県生まれ。ゼンリン子会社を経て2000年に独立後、社史・地域史の執筆、編集に携わりながら10万点超の古写真と絵はがきを収集してきた。近年では西日本鉄道(福岡市)創立110周年史の執筆、「にしてつWebミュージアム」を監修してきた。博多・冷泉地区まちづくり戦後史、博多祇園山笠「西流五十周年史」など、地域の近現代史の記録活動も継続。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、地元テレビ局、映画、舞台などの時代考証や企画、監修も担ってきた。著書に「ふくおか絵葉書浪漫」「伝説の西鉄ライオンズ」など。

【お知らせ】益田さんの最新著作「古写真・資料でみる 松永安左エ門と福岡の近現代史」(海鳥社、税込み1650円)が刊行されました。益田さんが長年収集してきた松永に関する古写真や資料、西日本鉄道所蔵の資料などが一冊にまとめられています。詳細、購入はこちらから

天神町交差点とその周辺。1928年の写真を加工(著者所蔵写真)

 次世代の姿へ生まれ変わりつつある福岡市の中心部、天神地区。新たな都市空間と雇用を生み出す福岡市の「天神ビッグバン」プロジェクトがきっかけです。福岡をはじめ九州各地の「街」に関する膨大な資料を収集し、その近現代史を研究し続けているアーキビストの益田啓一郎さん(54)=福岡市=が、再開発エリアの過去と今をつなぐ歴史解説へ、皆さんをご案内します。 ※アーキビスト(Archivist)=文化、産業的な価値ある資料を集め、それらを意義付けしながら活用する人材。

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