古田、山本昌… 昭和最強世代が認めた「速球王」、古里福岡で紡ぐ夢

 ファンの注目を集めるプロ野球のドラフト会議が11日に開かれる。長い歴史を持つ球界には、逸材が集中した世代が存在する。昭和を代表する「最強世代」は1965(昭和40)年度生まれだろう。高校3年生だった83年秋のドラフト会議では7人が1位指名を受けたほか、名球会入りした古田敦也、山本昌らスター選手も多く輩出した。プロ野球に進んだメンバーが集う「昭和40年会」で、誰もが「最速」と認めた快速右腕が福岡にいた。(西口憲一)

「あの山田さんですか…」

 建築資材を取り扱う「スチールエンジ」福岡営業所の所長でありながら、56歳の山田武史は「営業マン」としても飛び回っている。大手ゼネコンから請け負い、構造物の施工管理業務などを行うため、九州・沖縄の各現場に足を運ぶ。営業先で出身校を明かすと、大抵の人が「えっ、あの山田さんですか…」と身を乗り出してくる。

 久留米商高(福岡)の3年だった1983年に春夏連続で甲子園に出場。甲子園デビューとなった3年春の選抜大会。のちに広島入りする秋村謙宏を擁する宇部商高(山口)との選抜大会1回戦は、大会屈指の右腕による投げ合いとなった。強敵との対戦に試合前から不安で涙ぐんでいた女子マネジャーを励ますように、強気なエースは豪語した。「見とけや。2時間後に笑わせちゃるけん」

 2年秋に右脚の股関節付近を痛めていた。初回に1球目を投じた瞬間に痛みが再発し、最速は秋村の138キロに対して137キロ。軸足をかばいながらも、打者の手元で浮き上がるような軌道の直球を軸に13三振を奪って完封した。池田高(徳島)を強豪に育て上げ、1982年夏に続いてこの選抜大会を制する監督の蔦文也は白熱の投手戦をバックネット裏で観戦。「(山田は)うちの水野雄仁よりもいい投手」と口にしたという。

 当時社会人チームで監督を務め、92年バルセロナ五輪で野球日本代表を率いた山中正竹も「ライジングボールのようだ」と称賛したストレート。山田によると高校での最速は「数字的には140キロちょっとだったと思う。いいスピンがかかっていたから、速く見えたのでは」と振り返る。

 少年野球チームの指導者だった父久夫からは小学生時に「投手は回転のいい球が命」と説かれた。通学時はつま先で歩くことを厳命され、回転が見えやすいようにペンで縫い目を書いた軟式テニスのボールを投げ続けた。フォームは「指先、手首、肘をしならせるむち」をイメージし、西武の郭泰源を理想とした。

 「武史」の名前と竹のようにしなる体をかけてチームメートから「タケ」と呼ばれた山田が高校時代に意識した同学年の投手は2人いた。前橋工高(群馬)の渡辺久信と、池田高の水野だ。「久信が1年夏の甲子園で投げているのをテレビで見た。腕もしなるし、すごい投手だと。水野は馬力で投げ込んでくる。3年春の選抜に出た投手で2年秋の地方大会での奪三振数がイニング数よりも多かったのが(右腕では)彼と私だけだったので、気になっていた」。山田が189回で201奪三振なら、水野が151回で161奪三振だった。

 2回戦で駒大岩見沢高(北海道)に敗れた選抜後は、夏の福岡大会直前まで脚の治療に専念した。数少ない実戦登板は、甲子園を夏春連覇した「やまびこ打線」の池田高との招待試合。「投げないと失礼だから」。注目度の高さを示すように平和台球場(福岡市)には有料入場者約1万5000人が詰め掛け、外野席も開放された。1-4で敗れたものの、ほとんど投球練習をせずに臨んだ山田は、強力打線を相手に完投した手応えを感じ取った。

忘れなかったライバルたち

 脚の痛みも消え、意気込みも新たに迎えた夏。山田は再び試練に見舞われた。福岡大会中に虫垂炎を患った。痛み止めの注射が効かず、激痛は背中や肩に広がった。息をすることも苦しい中、福岡代表の座をつかみ取った。甲子園では初戦で小松明峰高(石川)を完封し、市尼崎高(兵庫)にはサヨナラ勝ち。岐阜第一高も倒して準決勝に進んだ。

 身長178センチに対して体重は66キロ。「下半身を少しでも太く見せよう」とポケットをタオルで膨らませての力投も限界だった。準決勝の第1試合では甲子園3連覇を目指した池田高が、1年生だった桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁するPL学園高(大阪)に0-7で完敗。横浜商高(神奈川)との第2試合が始まる直前に耳に入った相手選手の「池田が負けたし、やる気がなくなったな」という言葉にも、鼻っ柱の強い男は発奮するどころか、怒りさえ湧かなかった。痛みから解放されたい一心だった右腕は2-12で大敗。65年夏の三池工高以来、福岡勢18年ぶりの大旗まであと2勝のところで力尽きた。

 ベストには程遠いパフォーマンスで甲子園を去りながら、プロ全12球団に熱視線を送られた。山田も“その気”だったが、父が「お金のありがたみも分からんのに何がプロだ」と猛反対。「3年後を見てろよ」と社会人行きを決めた。それでも同学年の動向は気になった。「同じ福岡では大牟田高の村上隆行も指名されそうだと聞いて…。ドラフト当日も『おれには関係ない』と思いつつ、やっぱり寂しかった」。学校から帰ると、獲得を諦めきれない在京球団のスカウトが自宅にいたことも忘れられない。

 社会人を経て飛び込んだプロでは巨人、ダイエーの投手として5年間プレー。高校卒業後も故障との闘いが続き、輝けなかった山田を、同じ青春を過ごしたライバルたちは忘れていなかった。2007年冬のこと。「昭和40年会」の酒席で「おーい、タケシ。おまえに決まったぞ」と突然呼ばれた。高校時代に誰が一番速かったのか、という話題が出た時のことだ。

 「てっきり久信だと思っていたのに、私で一致したと」。その後、水野と並ぶ池田高の中心選手で、早大-日本生命でも活躍した江上光治も「山田は同世代で三本の指に入る」と口にしていたと人づてに聞いた。あとの“二本”が水野と渡辺だったのかは分からない。「でも、うれしかった。ありがたいことだと」

“恋女房”から贈られた言葉を胸に

 プロの世界を離れ、一人の社会人として生きていこうとしたときに、高校時代にバッテリーを組んだ山口幸夫から「あんた、(多くの剣豪を生んだ)柳生家の家訓って知っとうね。これまでは腕一本で黙らすこともできたやろうけど、あんたのために言っとくわ」と贈られた。

 小才は、縁に出合って縁に気づかず

 中才は、縁に気づいて縁を生かさず

 大才は、袖すり合った縁をも生かす

 「高校の時は『お山の大将』だった。監督からの伝令も『来るな!』と追い返していたから」。山田は苦笑いする。高校時代に対戦した1学年上の会社員と仕事で再会した際には「おまえは生意気やったもんなあ。あの時のままやったら、付き合わんかったぞ」と笑われたこともある。

 愚痴もこぼさずに身長160センチ台の小さな体で3年間、山田の快速球を黙々と受け続けた“恋女房”の捕手からのプレゼントは胸に響いた。「高校野球や甲子園が私に大切な縁をつくってくれたように、この街で多くのご縁と出会いたい」。名刺交換では相手よりも必ず先に渡す。「多くの人の協力があって建物はできる。人との出会いがうれしい」。生まれ育った福岡でこれからも夢を紡いでいく。

=文中敬称略

 ◆山田武史(やまだ・たけし)1965年6月1日生まれ。福岡県久留米市出身。同市の南小4年から軟式野球を始め、牟田山中では九州大会に出場した。久留米商高3年時に春夏連続で甲子園に出場し、夏は4強。社会人の本田技研熊本(現ホンダ熊本)で日本代表入り。ドラフト外で87年に巨人入団。90年6月にダイエーへ移籍。91年限りで現役を引退。プロ通算30試合に登板して0勝1敗、防御率4・89。右投げ左打ち。

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