「ケンリツ」から商いの街へ 新天町、焼け野原からの復興のシンボル

「天神の過去と今をつなぐ」(12)新天町

 福岡市・天神地区の歴史秘話を紹介する連載「天神の過去と今をつなぐ」12回目は、「新天町商店街」を取り上げます。戦前は通称「ケンリツ」で知られた県立福岡高等女学校があり、有名なソプラノ歌手などを輩出。戦後、闇市とは違う商いを根付かせようと「西日本公正商店街」構想が持ち上がり、「新しい天神町(てんじんのちょう)」ということで「新天町」の名で開業したそうです。アーキビストの益田啓一郎さんがこの地を振り返ります。

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 新天町の区画には、明治中期から終戦まで四十数年間にわたり学校があった。駅裏の文教地区だった敷地は、商売をするには決して恵まれた場所ではなかったという。新天町の始まりが学校跡地の再開発だったからこそ、集客宣伝にさまざまな創意工夫が盛り込まれた。これこそが、多くの商店街が衰退するなかでも新天町が活気を保っている理由かもしれない。

県立福岡高女の誕生

 藩政時代、現在の新天町の南側にあたる因幡町筋には武家屋敷が立ち並んでいた。明治維新後も閑静な場所だったが、1899(明治32)年6月、前年に天神町で開校したばかりの福岡市立高等女学校が、因幡町に8296平方メートルの敷地を購入した。現在の新天町の区画である。

1910年ごろの県立福岡高等女学校正門と校舎=著者所蔵写真

 女子教育熱の高まりを受けて1898(明治31)年に誕生した高等女学校は、福岡市役所の初代の建物を再利用して開校。場所は水鏡天満宮の西側、明治通りの「福岡市役所入口」交差点北側で、現在再開発が行われている旧日本生命ビルがあった場所だ。今も交差点北側の歩道上には初代の「福岡市役所跡」記念碑が立っている。

 新天町の土地を購入して移転を計画していた頃、高等女学校令が制定された。

 福岡県は4年以内に県立女学校を新たにつくるか、既設の女学校を県立代用校とするかを迫られ、後者を選択。市立高等女学校の新校舎の建設費を補助しながら、県立移管を目指した。

 当時の福岡市は人口5万人余の小都市であり、常に財政難だった。市は県立移管を前提に木造2階建ての新校舎を建設。1901(明治34)年11月までに移転を完了し、1902(明治35)年1月23日に落成式が行われた。

 同年4月に高等女学校は「県立代用」となり、1908(明治41)年4月からは県立に移管。これが現在の県立福岡中央高等学校の前身、県立福岡高等女学校誕生の経緯である。

ケンツリとミッション

 福岡高等女学校の正門は、新天町の東側(福岡パルコ側)入り口の通りに面していた。1910(明治43)年3月、明治通りに福博電気軌道が開通すると最寄りに「高等女学校前」電停が設置された。

 電車が開通するまでの交通機関といえば、人力車の時代だ。それまでは徒歩で通学するしかなかったが、市内唯一の公立女学校ということで、電車の開通により遠方からも優秀な学生が集まるようになった。

1920年ごろの福岡高等女学校校庭での授業風景。左後方に天神交差点に立っていた九州電灯鉄道ビルが見える=著者所蔵写真

 しかし、この電停名は短命だった。翌1911(明治44)年10月、博多電気軌道が開通して天神交差点そばに天神町電停ができると、福博電気軌道も電停を交差点そばに数十メートル移設し、「天神町」電停と改称したからである。

 この頃、天神付近にはこの福岡高女(通称=ケンリツ)と、私立の英和女学校(通称=ミッション、現在の福岡女学院)があり、男子学生の人気を二分したという。

 当時のケンリツの制服は、えび茶色のはかま。すそに二筋の黒線が入った染めこみで「ブラック・ツーライン」と呼ばれ、同校のシンボルとなった。日本髪にこの制服、それに靴履きという和洋混合ファッションの時代である。

 今からちょうど100年前の1921(大正10)年4月から、同校の制服は洋服となったが、ブラック・ツーラインは制服に着けるバッジのデザインに引き継がれた。戦後の新学制によって男女共学の「県立福岡中央高校」となった際も、校章のモチーフとなり、現在に至っている。

ケンリツ出身の歌姫

 1913(大正2)年3月22日、皇后陛下が福岡行啓の際に福岡高女を訪問され、授業をご覧になっている。この頃、学校に在籍していた人物にソプラノ歌手・荻野綾子(1898-1944)がいる。

 荻野は旧福岡藩士の家に生まれた。福岡高女の学生時代に、西南学院を創立したドージャー夫妻に音楽を学び、東京音楽学校(現東京藝大)声楽科へ進学した。作曲家・山田耕筰から才能を見込まれ、やがて海外でも歌唱力が評価された、日本歌曲史上に名を残す人物である。

1917年ごろに発行された福岡歌唱研究会の絵はがき。中央上に荻野綾子の肖像写真がある=著者所蔵

 荻野は東京音楽学校へ進学したのち、地元福岡では知られた存在となり、大正中期には彼女を名誉会員として「福岡歌唱研究会」が発足。福岡で歌唱(コーラス)ブームが起こった。

 荻野の才能にほれ込んだ山田耕筰は、北原白秋の「からたちの花」に曲をつけた際、彼女の歌唱をイメージして同曲を作曲したという。今にのこる「からたちの花」のコロムビアレコード初盤は、荻野が歌唱したものだ。

長谷川町子とケンリツ

 1924(大正13)年4月、九州鉄道(現西鉄天神大牟田線)が開通し、学校正門の東向かいに九鉄福岡駅が開設された。駅周辺はにぎわいを増していき、次第に勉学にいそしむ環境ではなくなった。

1936年ごろ、改築工事中の九州鉄道福岡駅。後方に学校の建物が見える=本紙データベースより

 1932(昭和7)年3月10日、福岡高女は平尾の現在地(県立福岡中央高校敷地)へ校舎を移転。この頃、同校に入学したのが「サザエさん」で知られる漫画家・長谷川町子である。毎年夏の「博多祇園山笠」で新天町にも飾り山笠が置かれる。近年、見送り標題の多くが「サザエさん」をモチーフとしてきたきっかけが福岡高女との縁である。

 長谷川は、佐賀県小城郡東多久村(現・多久市)で四姉妹の三女として生まれ、幼少期に福岡市四十川(現・福岡市中央区春吉)へ転居している。

 春吉尋常小学校(現・福岡市立春吉小)を卒業して福岡高女へ進学。同校在学中に父を病気で亡くした。2年生まで在籍したのち、1934(昭和9)年に家族とともに上京することとなり、東京の山脇高等女学校へ転校した。

2012年7月、新天町の飾り山

 長谷川は山脇高等女学校3年生で「のらくろ」で知られる漫画家・田河水泡の弟子となり、1935(昭和10)年10月に雑誌「少女倶楽部」でデビューする。

 その後は太平洋戦争が激化し、1944(昭和19)年3月、福岡へ家族で疎開。西日本新聞社絵画部に勤務したのち、戦後の1946(昭和21)年4月に夕刊フクニチで「サザエさん」の連載を始めるのは、今ではよく知られた話である。

福岡女子専門学校

 福岡高等女学校が平尾へ校舎を移転した後、旧校舎は福岡県警察署分室として数年間使用された。その後1937(昭和12)年、今度は当時「女専」と呼ばれた福岡県女子専門学校(福岡女子大学の前身)が移転してきた。

 同校は須崎裏町(現在の須崎公園、福岡県立美術館付近)で1923(大正12)年4月、日本初の公立女子専門学校として開校。1937(昭和12)年1月27日夜の火災で校舎を全焼し、空き家となっていた福岡高女跡の校舎・校庭をそのまま使用して授業を再開。1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲で再び校舎が全焼となるまで、この地に仮校舎を構えた。

焼け跡に新天町誕生

 福岡大空襲で天神地区の大半が焼け野原となった。

 1945年8月の終戦からまもなく、西日本新聞社の戦後対策本部が「西日本公正商店街」構想を提唱。同社の別館となっていた九州日報の旧社屋を社交場「西日本会館」とし、その南側に当たる学校跡地に商店街を設け、復興の拠点にしようという計画だった。

商店街の建設計画を報じ、出店者を募る1945年11月4日付本紙紙面

 終戦直後、焼け跡には自然発生的にヤミ市(闇市)ができた。食べるためにやむを得ずヤミ屋となったにわか商人も多く、物がない時代に法外な値段で売買されることも多かった。

 新しく設ける「公正」商店街は、ヤミ市とは一線を画し「専門店主が商業道徳のもとで商品を売る」意図が込められていた。これが新天町の始まりである。

 商店街構想の実現に向けて、当時すでに福博実業界の重鎮となっていた、おたふくわた社長の原田平五郎に話が持ち込まれた。原田は趣旨に賛同し、戦前からの「博多専門店会」メンバー7人を商店街づくりの準備委員に迎えて計画が動きだす。隣接して福岡駅や岩田屋があったとはいえ、当時この場所はいわば駅裏エリアで、繁華街とは程遠い立地だと思われていた。

 誰もが、元々の繁華街である博多部や中洲の商店街が復興すれば、人は博多へ流れると考えていた時代。だからこそ、計画にはさまざまな知恵と工夫が盛り込まれていく。

 終戦から3カ月、1945年11月には商店街の具体的な構想と店舗配置に着手し、応募者の募集や整地などを並行して進めた。建設資金は300万円(当時)。加入者(出店希望者)の出資金を2万円以上に設定した。

 終戦直後は、建設資材や工事人材の確保が困難だった。現在の大災害発生時も、仮設住宅の建設に時間を要するが、当時はその比ではなかったことが容易に想像できる。開業予定の1946(昭和21)年3月になっても店舗は完成せず、ようやく10月15日に落成式を挙げることができた。

新天町落成式の様子を伝える1946年10月15日付本紙紙面

 開業に際し、西日本公正商店街という名称では堅苦しいということで、「新しい天神町(てんじんのちょう)」ということから「新天町」と名付けられた。終戦からわずか1年余、新天町の誕生は天神地区の本格復興への第一歩となった。

 1967(昭和42)年10月に刊行された「新天町二十年のあゆみ」には、創業当時の苦労話や逸話が余すことなく収録されている。

 連載の執筆にあたり、改めて書籍を読み返してみた。組織づくりから運営方法、店舗や通路の配置に至るまで、当初から本当によく練られた商店街だということがよく分かった。

 商店街が本格的な記録誌、周年史を編纂発行することは少ない。その理由の第1は、全国にある多くの商店街が、旧街道筋や駅周辺で自然発生的に生まれたものだからである。その証拠に、福岡市内の川端通商店街をはじめとする現存商店街の大半が同様の記録誌を持たない。

 全国で商店街の衰退がニュースになる中、新天町は今も進化を続けている。店舗が撤退しても、新たに魅力的な店舗が開店する。

2021年10月、落成から75年を迎えた新天町商店街

 これができるのは、設立時の「西日本公正商店街」構想から引き継がれた新天町商店街商業協同組合の仕組みにある。その秘密は、現在連載されている「新天町まち物語」で解き明かされることだろう。

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 益田啓一郎(ますだ・けいいちろう) 1966年大分県生まれ。ゼンリン子会社を経て2000年に独立後、社史・地域史の執筆、編集に携わりながら10万点超の古写真と絵はがきを収集してきた。近年では西日本鉄道(福岡市)創立110周年史の執筆、「にしてつWebミュージアム」を監修してきた。博多・冷泉地区まちづくり戦後史、博多祇園山笠「西流五十周年史」など、地域の近現代史の記録活動も継続。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、地元テレビ局、映画、舞台などの時代考証や企画、監修も担ってきた。著書に「ふくおか絵葉書浪漫」「伝説の西鉄ライオンズ」など。

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 次世代の姿へ生まれ変わりつつある福岡市の中心部、天神地区。新たな都市空間と雇用を生み出す福岡市の「天神ビッグバン」プロジェクトがきっかけです。福岡をはじめ九州各地の「街」に関する膨大な資料を収集し、その近現代史を研究し続けているアーキビストの益田啓一郎さん(54)=福岡市=が、再開発エリアの過去と今をつなぐ歴史解説へ、皆さんをご案内します。 ※アーキビスト(Archivist)=文化、産業的な価値ある資料を集め、それらを意義付けしながら活用する人材。

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