「東洋一のつり橋」をたどれば73人犠牲の事故 若戸大橋を重文指定へ

 国の文化審議会が重要文化財への指定を答申した若戸大橋は「東洋一のつり橋」として開通し、その後に続く日本のつり橋建設技術の礎を築いた。高度経済成長期、重厚長大産業で発展した北九州市の“象徴”として親しまれてきた橋にまつわる吉報に、関係者からは喜びの声が上がった。

 若戸大橋は1959年の着工。長さは当時、東洋一と評された長崎県の西海橋(316メートル)を大幅に上回った。北九州市によると、動員された労働者は約61万人に上り、東京タワー五つ分に当たる約2万トンの鋼鉄が使われたという。赤一色に染められたのは「威厳を示すため」とされた。

 文化審が評価したのは橋の設計技術だ。旧建設省や東京大の研究チームが米国で学んだ上で、独自の架橋技術を開発。コンピューターがなかった時代、光の屈折を利用して橋のひずみを計測し、強風に耐えられるケーブルを設計するなど研究の粋を結集した。こうした成果は、地元の関門橋(1068メートル)や、明石海峡大橋(3911メートル)の建設に受け継がれた。

 若戸大橋ができたきっかけは、30年に起きた痛ましい事故だ。若松、戸畑両区にまたがる洞海湾で渡船が転覆し、73人が死亡。橋やトンネルを求める機運が高まったが、戦争で頓挫した。高度経済成長期に車の利用が大幅に増え、着工につながった経緯がある。

 建設には旧若松市長の故吉田敬太郎氏が尽力した。長男の潤世さん(90)=福岡県芦屋町=は「父は若い頃に視察先の欧米で巨大な橋を見て『洞海湾にも』と橋の建設が悲願になった。完成後は『わしが造った』が口癖。今回の答申を喜んでいるはず」と話す。

 旧戸畑市土木課の職員だった山中健輔さん(84)=北九州市戸畑区=は、建設に当たる労働者の仲介を担った。約700台の車が連なった開通パレードも参加。周辺は海岸まで人であふれ、上空は数十機のヘリコプターで埋め尽くされた。

 かつて橋には歩道があり、夏になると涼を求める恋人たちでにぎわったという。「若戸大橋は、僕らにとっての『いい時代』が詰まっている」。山中さんは慣れ親しんだ身近な橋が高い評価を受けたことに「感無量です」と声を詰まらせた。

 (白波宏野、岩谷瞬)

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