日米開戦80年 「誤り」繰り返さぬために

 80年前のきょう、1941(昭和16)年12月8日、日本は米ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まった。広くアジアを戦渦に巻き込み、日本人だけで約310万人が犠牲になり、国土は焼け野原になった。

 国が滅びかねない無謀な「誤り」をなぜ避けられなかったのか。日本人が今も考え続けねばならない問いである。

 開戦に先立つ41年4月、政府は官僚や軍人、民間から若手のエリートを集めて総力戦研究所を設置した。模擬内閣で国内のデータに基づき日米開戦後をシミュレーションしている。

■コロナ対応に共通点

 同年8月に出た結論は「日本必敗」。序盤は優勢でも長期戦は必至で、米国の経済力との差が圧倒的で劣勢となり、最後は旧ソ連が参戦し、3~4年で敗戦という予測だ。原爆投下を除けば、ほぼ的中している。

 この結論に、当時の陸軍大臣で開戦時は首相も兼ねた東条英機は「戦争はやってみないと分からない」と発言し、結論を口外せぬよう命じたという。

 一連の経緯は猪瀬直樹氏のノンフィクション「昭和16年夏の敗戦」(83年初版)に詳しい。日本的な意思決定の欠陥を指摘する著作として知られる。

 その文庫新版が昨年6月に出て話題になった。「アベノマスク」やPCR検査数の伸び悩みといった政府の新型コロナ対応に国民の不満が高まっていた頃だ。日本には戦前と同じ問題があるのでは、という関心を呼んだ。その後「コロナ敗戦」との言葉も聞かれるようになる。

 猪瀬氏は新版の後書きで、コロナの政府対策本部会合は、戦前の天皇臨席の「御前会議」と同様にお飾りのようなものだったとして、意思決定の不透明さを問題視している。

 80年前も、政府や軍部の要人の多くは対米戦に勝算なしと考えていたが、結局、戦争回避の道は選ばれなかった。

 戦争か平和かの重大局面で日本は、その時点のベストな選択より、それに先立つ政策の蓄積に左右される-。戦前の日本に外交官として駐在した英国の研究者が戦後に示した見方だ。

 令和の時代にも通底する重い指摘ではないだろうか。

 戦前は中国に築いた利権や軍国主義路線に縛られ「やってみないと分からない」戦争に突き進んだ。コロナ対応では、行政や医師会が積み上げてきた施策や慣例にこだわるあまり、最良の対応ができなかった。

 根拠の弱い楽観主義も共通する。戦前は欧州での同盟国ドイツの優勢を過大評価し、英国が屈すれば米国も戦意を失うとの甘い読みがあった。コロナでも当初は感染者数が国際的に低水準だったため、政府の水際対策は緩く、観光支援事業の推進などが国民の警戒心を緩めたとの批判が根強い。

 戦前の誤りは指導者の責任だけを問えばいいのか。忘れてならないのは国民世論の熱狂が開戦の判断を支えたことだ。その責任は当時の新聞も免れない。対米英強硬論をあおり、戦争やむなしのムードを醸成した事実には痛烈な反省が必要である。本紙も深く自覚したい。

歴史に学ぶことから

 開戦時の世を覆った空気の起点の一つとして歴史家が挙げるのが日比谷焼き打ち事件(05年)だ。日露戦争の講和条約で賠償金が得られぬことに不満を募らせた群衆が起こした暴動である。戦争で賠償金や領土を獲得することを公然と求める。日本社会における大衆の変質としても見逃せない出来事だ。

 明治以来の富国強兵の結末である。日露戦争で日本は国力の限界に達し、ロシアの譲歩を引き出す余地は乏しかったが、国民はそれを知らなかった。正確な情報を国民全体で共有することの重要さを今に伝える。新聞の使命もそこにある。まずは歴史に学ぶことから始めたい。

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