家族と奇跡の再会、冬の38度線越え…引き揚げ者が語った逃避行劇

 旧ソ連との国境に近い朝鮮半島北部の西水羅(ソスラ)で生まれ育ち、9歳で博多港に引き揚げた柿原英祐さん(85)=長崎県佐世保市。1945年の終戦で一変した生活、命からがらの逃避行。苦難と恐怖の連続だった。

 30年ほど前にまとめていた体験記を、このほど市民団体の証言集に寄せ、初めて家族以外に見せた。「戦争の悲惨さを知ってほしい」。その一念だった。今年は戦後77年となる。

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 福岡で働いていた父義一さんが大陸に求めた新天地が西水羅だった。海に面した町は幼い柿原さんにとっては「楽園」。夏は釣りを楽しみ、冬は凍った海面をスケートで滑った。

 だが、父は戦局の悪化で召集。終戦間際の空襲で、母ときょうだいの計6人で家を飛び出した。さまよう中で終戦を知った。

 残留邦人が一時避難するため、各地に設けられた収容所を渡り歩き、南へ向かう。収容所内では旧ソ連の下級兵が日本人から時計や万年筆を強奪したが、抵抗する者はいない。敷地外では日本に嫌悪感を抱く住民から暴行される者もいた。

 道中の光景は今も忘れられない。ハエがたかった数々の遺体。道端に置かれて泣きじゃくる赤ん坊のそばには、名札とともに、誰かに拾われることを願う一文が添えられていた。柿原さん一家にも地元住民から子どもを養子として迎え入れる申し出があった。帰国後、母はいつも「全員が無事に日本の土を踏むことが生きがいだった。どの子が欠けても、生きる望みを失っていた」と話していた。

 9月2日、城津(ソンジン)(現在の北朝鮮の金策)の収容所で父と再会した。2週間後には学徒動員されていた長兄とも合流できた。

 旧ソ連と米国の占領エリアを分ける北緯38度線を越えたのは12月に入ってから。寒さと恐怖を感じながら、現地の案内人を先頭に暗闇を進む。集団と気付かれぬよう、数十メートルの間隔を確保した。震えが止まらなかった。

 12月9日に釜山を離れ、翌10日、家族8人で博多港に降り立った。思い返すと、日本人をふびんに思って食料や寝床を提供してくれる人もいた。「今日があるのは現地の人の親切心を抜きにしては考えられない」と感謝する。西水羅を出てから4カ月、移動距離は千数百キロに及んだ。

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 戦後は佐世保で造船業に携わった柿原さん。67年に亡くなった父と体験を記録する約束をしており、父が残した手記を基に自らの記憶を加えて体験記をまとめた。引き揚げ者でつくる団体「引揚げ港・博多を考える集い」が昨年12月に刊行した証言集「あれから七十六年」に収録されている。 (小林稔子)

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