【「批判ばかり野党」再燃】 平野啓一郎さん

 ◆疑似民主主義に危うさ

 昨年の衆院選以降、「野党は批判ばかり」批判が再燃し、当の野党やメディアからは、「提案型」への転換が主張されている。しかし、この議論は、前提条件をまるで無視して完全に混乱している。

 そもそも、「野党は批判ばかり」批判は事実誤認である。例えば、過去5年の国会を見ても、槍玉(やりだま)に挙がっている立憲民主党会派は、政府提出法案に対して8割前後賛成している。

 新型コロナウイルス対策に関しても、「1人10万円の特別給付金」、「家賃支援給付金」などの直接支援制度、「雇用調整助成金のコロナ特例措置」などは、いずれも野党の提案である。

 一口に、野党からの批判と言っても、政権の腐敗に対してと、政策に対してとでは区別が必要だ。野党はそもそも、思想的に与党と異なるからこそ野党であり、政策面で対立するのは当然である。

 他方、所謂(いわゆる)モリカケ問題や「桜を見る会」問題などに対しては、批判や追及以外に何が出来るのか? 対案など出しようがない。ニュースを見て、「まだやっているのか」と感じるならば、それは、不祥事を起こし、しかも野党の質疑にまったく誠実に応じない政府与党の責任だ。安倍元総理が、「桜を見る会」問題で118回も国会でウソを吐き続けた事実は、日本の憲政史上の大きな汚点である。

    ◆   ◆ 

 国会で野党議員も、いきなり激昂(げきこう)して批判を始めるわけではない。しかし、政府が回答になっていない答弁書を棒読みし続けたり、支離滅裂な言い逃れに終始するならば、追及の語調は厳しくなる。ところが、与党の答弁が継ぎ接(は)ぎされ、尤(もっと)もらしい形に編集され、それと組み合わされて報道されると、野党の質問は、何か理不尽にがなり立てているように見えるのである。

 新聞も、「野党は批判に躍起だ」などと、あたかも野党が批判を自己目的化しているかのような不適切な表現を、平然と使用している。

 批判するにせよ、言い方はあるだろうとの意見もある。実際、一般的なコミュニケーションでは、声を荒らげれば、感情的な反発を招き、却(かえ)って逆効果であり、無理強いの弊害もある。しかし、それとて、どのような権力関係、利害関係かで、まったく異なる話である。政府が不正を隠蔽(いんぺい)し、逃げ切ることばかり考えている時に、融和的な説得は意味を成さないだろう。

 「提案型」とは、一体、誰に向けての話なのか? 政府に提案を受け容(い)れさせ、「政権担当能力」を有権者にアピールするということか? 

 そのために、野党が限られた質問時間の中で、批判はそこそこに自分たちのプレゼンを優先させるならば、政府にとってこんなに楽なことはない。その提案を摘(つ)まみ食いする安定した与野党関係が機能する時、有権者は、政権交代の必要など認めないだろう。

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 ここに来て、リベラル系のメディアが、「野党は批判ばかり」批判に肩入れするのは、小心翼々たる一種の自己投影だろう。新聞購読者数の減少は、自分たちが「批判ばかり」と見られているからではないか、と。しかし、先の大戦でも、メディアが翼賛報道に突き進んだのは、購読者数や販売と直結する経営の思惑も一因だった。そのことを、戦後、ずっと反省してきたはずのメディアが、結局のところ、貧すれば鈍する式に、同じ轍(てつ)を踏もうとしている。

 批判なくして、いかにして社会が発展し、政治権力が健全化するであろうか?

 政府は頑張っているのだから、みんなで協力しよう、というのは、無責任な疑似民主主義であり、主権者として、あるべき理想に向けて積極的に政治参加すべきである。

 【略歴】1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中に「日蝕」で芥川賞。「マチネの終わりに」で渡辺淳一文学賞。「ある男」で読売文学賞。近刊は「本心」。

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