「ニュースが多いから短く」沖国大・米軍ヘリ墜落に見えた本土メディアとの溝

島とヤマトと報道(上)


「人間じゃないか」取材マイクを奪った青年


 次々とひっくり返される米兵の車両に火が放たれ、夜空は炎で赤く染まった。

 1970年12月の未明、本土復帰を1年半後に控えた沖縄・コザ市(現沖縄市)。米兵が起こした人身事故をきっかけに抑圧されていた民衆の怒りが爆発した。

 ラジオ沖縄の記者だった玉保世(たまほせ)英義(74)は録音機を担ぎ「コザ暴動」の現場に駆け付けた。米軍嘉手納基地に続く車道は怒号とガソリンの臭いが充満していた。突然、青年が取材マイクを奪って叫んだ。

 「私は悲しい。沖縄のこの25年間の犠牲、何万という人が死んでいて、沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人、人間じゃないか。ばかやろー」

 太平洋戦争末期の激しい地上戦を経て、沖縄は45年に米統治下に置かれる。50年代には「銃剣とブルドーザー」で土地が奪われ、米軍による事件事故が相次ぐ。55年、米兵が6歳の少女を暴行し殺害。59年、米戦闘機が小学校に墜落して児童ら17人が犠牲になった。

 暴動の3カ月前には飲酒運転の米兵が玉保世の知人女性をはねて死亡させたが、軍事裁判で無罪。「自分も取材じゃなければ暴動に加わっていた。よくぞ言ってくれた」。青年の叫びは、沖縄の叫びでもあった。

 日本テレビの特派員だった森口豁(かつ)(84)も一晩中カメラを回し続けた。「耐えて耐え忍んだ沖縄の人がついに抵抗したんだ」。感極まり、ファインダーが涙でかすんだ。

 森口は「沖縄の現実を伝えたい」と59年に東京から移住し、15年間取材を続けた。米統治下では、「復帰したい」との思いを原稿にすることもはばかられた。

 「抑え付けられ、物も言えない中で頼りにしたのは日本だった。本土に復帰すれば変わると信じていた」

(敬称略)...

残り 1382文字

この記事は会員限定です。

月額1,100円で、全ての記事が読み放題。
今すぐ無料トライアルで続きを読もう。

ビューアアイコン

すべての記事が読み放題

特集が読み放題

記者渾身の特集が読み放題

会員特典

福岡で使える会員特典 プレミアムコース

PR

PR