【提論2022】正義論 平野啓一郎さん

◆冷静に基礎から考察を

 「いじめ」について考えてみたい。いじめは暴力であり、悪いに決まっている。「良いいじめ」というものはない。いじめの中には、被害者側に原因がないものもあれば、生意気だとか、変わっているだとか、原因があるものもある。また、加害者側の家庭環境に問題があり、それが原因で学校で暴力的になっている、ということもあるだろう。

 しかし、いずれにせよ、それらの「原因」とは加害者側の主張や事情で、いじめをして良い理由にはならない。被害者も問題だなどという「どっちもどっち論」にしてはならないのである。

 いじめが一旦(いったん)起きれば、まずは止めるべきである。その上で、被害者を保護し、加害者に理由を尋ねるわけだが、その説明を理解することと肯定することとは、同じではない。事態を収拾し、再発を防止するためには、何が起きているのかを把握する必要がある。加害者は、相手が悪いだとか、ただふざけて遊んでいただけ、といった自己弁護を試みるだろう。その拠(よ)って立つところは、どれほど無理があろうとも、自分は悪くないという一種の正義論である。

 普遍的な正義という考え方には、強い警戒がある。各々(おのおの)が奉じる正義は、しばしば激しい対立を引き起こす。そのために、どちらか一方の正義を絶対視せず、それぞれの問題点を客観視しようとするのが「どっちもどっち論」である。この物の見方は、正義の暴力性を抑制する上で重要だが、いじめのように、明らかに一方に非がある時には、加害者の責任を曖昧にしてしまうという批判がある。

    ◆   ◆ 

 しかし、この「どっちもどっち論」を巡る議論には、混乱がある。

 「正義」について考える際、私たちは、それを一旦、「目的の正義」と「手段の正義」とに分けるべきである。

 多様な価値観を持った人々が生きるこの社会で、「目的の正義」を一つに定めることは難しい。いじめの加害者の言い分にせよ、必ずしも全否定はできないかもしれない。或(ある)いは、彼こそ保護が必要な場合もある。

 しかし、「手段の正義」については、暴力を用いない、といった最低限の合意は可能なはずであり、それは実現すべきである。そして、どれほど「目的の正義」が「どっちもどっち論」で相対化されようと、暴力を振るった以上、「手段の正義」に反していることは間違いなく、その責任は免れ得ないのである。

 しばしば見受けられるのは、起きてしまった問題について、まず「手段の正義」をこそ論じねばならない時に、「目的の正義」に話を逸(そ)らしてしまうことである。

    ◆   ◆ 

 私たちの社会は、従って、基本的に「手段の正義」を追求することで、最低限の安全を確保しなければならない。その上で、困難な「目的の正義」の合意点を探らねばならないが、或いは、合意なき共存を模索することも一つの選択肢である。国際社会の場合、「手段の正義」として禁止すべきは、当然、武力の行使であり、その違反は、「目的の正義」の如何(いかん)を問わず、厳しい批判の対象となる。

 ウクライナでの戦争は衝撃的だが、平和を実現するためには、軍拡競争に突き進んでゆくのではなく、軍縮という「手段の正義」の追求をこそ目指さねばならない。

 私は、戦争を「いじめ」に喩(たと)えることで十分に議論できるとは思わないが、言葉の混乱が極まった時には、基礎的なことから順を追って、より複雑な問題へと思考を進めてゆく冷静さが必要である。

 さもなくば、バイエルも弾けないのにリストの難曲に挑戦するような目も当てられない結果となるだろう。

 【略歴】1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中に「日蝕」で芥川賞。「マチネの終わりに」で渡辺淳一文学賞。「ある男」で読売文学賞。近刊は「本心」。

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