最後の夏、気持ち入れて本番迎えて 30年前に甲子園Vの西短付・浜崎元監督

 第104回全国高校野球選手権の地方大会は7月2日の鹿児島から九州各地で開幕する。1992年夏の甲子園で西日本短大付(福岡)を初優勝に導いた浜崎満重氏(73)に、当時の指導方針や頂点に立った「伝説の一戦」を振り返ってもらった上で、聖地を目指す球児へエールも送ってもらった。

 西日本短大付の監督就任は38歳だった。第一声は「僕は(全国)優勝するために来た。甲子園で優勝するチームを大阪で見てきた。でも甲子園に出場したことはないので分からん。手探りや」。社会人野球の新日鉄堺の監督として都市対抗に4年連続、日本選手権に5年連続出場した経験をひっさげて「全く畑違い」の世界に飛び込んだ。

 社会人野球時代は当時、まだ新しかったテーピングやアイシング、ストレッチなどを導入。福岡移転前のプロ野球南海ホークス2軍グラウンドで自主トレを見学し、練習方法を参考にしたこともあった。「そうしたやり方は高校野球でもほとんど通じたんですよ」。データを取って分析するいわゆる「ID野球」も取り入れた。

 浜崎野球が結実したのは就任6年目の1992年夏。エース森尾和貴が準決勝までの4試合で1失点しか許さず、決勝戦は拓大紅陵(千葉)との対戦だった。二回にスクイズで奪った1点を守り切った1-0の勝利。逆に七回に相手スクイズを見切って外すように指示してピンチを脱した。「社会人野球時代、相手のサインを見破るのが得意だったんですよ。重要なサインはそれまでと微妙に変わるんだよね」

 また試合中の取り決めを細かく定めた。例えばバントのサインでも守備位置次第でバスターに切り替えるなど徹底的に選手にたたき込むのも特長の一つだった。「守備の取り決めは30くらい。攻撃は40~50はあった」。新チームが発足し全員が理解して実践できるようになるのは夏の大会から。森尾の好投も見事だったが、甲子園で練習通りにプレーしたバックもまた見事だった。

 有言実行を果たし「狙っての優勝だったから、感動はそれほどなかった。むしろ目標を達成できてホッとした」と当時の心境を振り返る。「優勝」の二文字は「実はハッタリだった」と明かす。「でも口に出せば人間、達成できることがあるから」。言葉の力を信じ、選手に信じさせ、福岡勢では65年夏に初出場で初優勝した三池工以来の頂点へ。あの30年前の歓喜から福岡勢は春夏通じて全国制覇に届いていない。

 3年生にとっては最後の夏。「最後の大会は失敗を恐れて思い切りやれないもの。試合の1週間から10日前には気持ちを入れて慣らしていかないと、本番で力が発揮できない」。監督時代に大会前に選手に語った言葉だ。まもなく開幕する球児へのエールとして送った。(前田泰子)

 浜崎 満重(はまさき・みつしげ)1948年10月25日、北九州市生まれ。67年に八幡工高(福岡)を卒業後、新日鉄堺へ。遊撃手として活躍し、都市対抗に3度、日本選手権に1度出場。79年に監督就任し、都市対抗は82年から4年連続、日本選手権は80年から5年連続出場。大阪・成城工高時代の野茂英雄(元近鉄、米ドジャースなど)をスカウトした。87年に西日本短大付高(福岡)監督となり、92年夏全国制覇。2004年から延岡学園高(宮崎)を率いて甲子園に春夏1度ずつ出場。教え子に西日本短大付高時代の新庄剛志(日本ハム監督)ら。

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