戦死の知らせは一握りの「砂」 優しかった父がやっと帰ってきた

〈遺留された戦争 たどる・つなぐ〉小さな位牌㊦

 遺留品の木製の牌(いはい)。「あなたの特命取材班」の取材で、宮崎・高千穂町出身の甲斐正雄さんを指すものではと突き止めた。しかし遺族に関する情報がなく、取材班が諦めかけると、高千穂町役場から1通のメールが届いた。「甲斐正雄さんにつながる方を見つけることができました」

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 町福祉保険課によると、町が保存する戦没者の資料を調べたところ、甲斐正雄さんの本籍地が判明したという。現在も残る家の所有者をたどり、正雄さんの妻ハツエさんが再婚後に生まれた子どもたちに行き着いた。甲斐家を継いだ長男はすでに亡くなっていたが、長男の妻の甲斐キミエさん(72)=宮崎県延岡市=らは引き続き正雄さんら先祖を供養している。

 早速、連絡を取った。正雄さんの長女が高千穂町の隣の日之影町で健在という。

 ハツエさんも10年ほど前に95歳で亡くなり、正雄さんが話題に上ることもなくなった。「驚いた。正雄さんや戦友の思いが詰まっている位牌なので、受け取りたい」とキミエさん。

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 米国から届いた位牌を運び、高千穂町へ。町役場に着くと案内されたのは町長室。キミエさんと甲斐さんの長女の内倉マツエさん(84)が来てくれた。キセキから預かった箱を開けてもらい、いよいよ対面。2人は小さな位牌を代わる代わる手に持ち、なでさすっていた。「こんなに時間がたって、こんなものが出てくるなんて…」

記者から甲斐正雄さんのものとみられる位牌を受け取る、遺族の内倉マツエさん=7月19日、宮崎県高千穂町(撮影・福間慎一)

 正雄さんは農業を営んでいた。「やさしい父でした」とマツエさんはしのぶ。出征直前、体調を崩して便秘がひどかった幼い自分を「マツエはまだ出らんとか」と心配してくれた。応召の日、つるし柿を背のうに山ほど詰めた父の姿に「こんなにたくさん食べるのかな」と不思議だった。「今思えば、隊の仲間にあげるためやったとでしょうね」

 長女と次女、そしておなかに三女を宿した妻のハツエさんを残して戦地へ。そして正雄さんが、古里に戻ることはなかった。

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 正雄さんの最期を、マツエさんらは「海でやられた」としか知らなかった。町に残る資料には、戦地での足跡が記されていた。

 〈ラバウルよりニューギニヤに向う途中、敵機数十機の爆撃により輸送船は沈没し海上にて筏を組み、力を合わせ戦友愛に生きて居たところ又もや敵機に発見され銃爆撃により戦死す〉。1943年3月3日、34歳だった。

 大黒柱の戦死の報を受けた家族に届いたのは箱に入った「海の底の砂」だった。遺骨はもちろん、遺留品は何一つない。箱を埋めて供養する際、身重の妻は取りすがるように「私も一緒に(箱のところに)入る」と泣いた。「母の姿は忘れられない。こんな形で帰ってくるなんてと、悲しかった」。マツエさんの脳裏に、今も焼き付く悲しい風景だ。

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 町役場から車で30分ほど、山あいにある正雄さんの生家にはまだ、約80年前の面影が残る。仏間に飾られた正雄さんの遺影は、その人柄がしのばれる柔らかな表情だった。

生家の仏壇に、妻ハツエさんの写真と並んで置かれた甲斐正雄さんの位牌(撮影・福間慎一)

 位牌は、妻ハツエさんの写真と並んで仏壇に置かれた。線香を上げたマツエさんは「夢みたいなこと。戻ってきてくれてありがとうございます」と小さな声で父に語りかけ、手を合わせた。キミエさんも「思い出の詰まった家でまた一緒になれて、2人ともうれしいでしょうね」。

 戦争で引き裂かれた家族が果たした、小さな「再会」。家を囲む森からは、ヒグラシの鳴き声が絶え間なく部屋にしみこんでいた。(黒田加那)

【連載㊤米国のネットオークションに小さな位牌…「甲斐正男」さんはどこに】
【連載㊥478ページ目、ひたすらめくって見つけた1文字違いの「正雄」さん】

正雄さんの生家から望む高千穂町向山地区の山林

 

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