「運命の分かれ目だった」おばちゃんの被爆体験、家族が語り継ぐ

 広島市は4月から身内の被爆体験を聞き取り、講話する「家族伝承者」の養成に新たに取り組んでいる。北九州市小倉北区のソプラノ歌手、豊嶋(てしま)起久子さんは応募した一人。「おばちゃん」と慕いつつも、これまで聞けなかった親族女性の元に通い始めた。見えてきたのは原爆孤児となった壮絶な半生。「生きた証しを後世に残したい」。6日、広島原爆の日に改めてその思いを強くする。

 私が伝えていくから見守ってください-。7月末、広島市の平和公園内にある原爆死没者慰霊碑の前で手を合わせた。そこには親戚一家5人の名が刻まれている。体験を聞き取るのは、この一家で唯一生き残った豊島廣子さん(88)=山口県下関市=の話。祖父豊さん(1983年に80歳で死去)のめいに当たる。

 77年前の8月6日。11歳の廣子さんは疎開先の宮島にいた。命が助かったのは奇跡に近い。爆心地から2キロ圏内の自宅にいたはずの両親ときょうだいの5人は、遺骨すら見つかっていない。数日前まで宮島にいた妹=当時(6)=は、体調を崩して両親と自宅に戻ったところだった。「お姉ちゃんも帰ろう」と妹に何度も言われたが残った。「運命の分かれ目だった」(廣子さん)

 広島市から17キロと離れていた宮島には、爆心地からの負傷者が次々に運ばれてきた。野戦病院化した寺に350人が収容され、このうち9割がそこで絶命したとされる。廣子さんの伯母も避難してきたが原因不明の発熱で寝込み、亡くなった。介抱し最期をみとった廣子さんは「あの時は(島の)あちこちで亡くなった」。被爆した人たちと接する中で自身も被爆者となった。孤児となった戦後も苦労は続いた。

 こうした体験について豊嶋さんは、家族伝承者への応募をきっかけに聞き取りを始め、詳細を知った。身近な存在過ぎて聞けず、廣子さんも進んで語ってこなかった。

 7月には伝承者に向けた研修が広島市で8回あった。座学で専門家から放射線の人体への影響や、被爆者支援の在り方などについて学んだ。

 そうした中で改めて気付いたことがある。祖父の兄弟は全員が能楽師。廣子さんの父もそう。生き残った兄弟には戦後に人間国宝になった人もいる。能楽一家と歌手との関係に「表現者」というルーツのつながりがある。

 「生きていれば、みんなが日本芸能を背負っていたかもしれない。そうした表現者の将来を奪い、文化も破壊する戦争や核兵器は二度と使用してはいけない」

 今月もまた「おばちゃん」に会いに行く。 (松永圭造ウィリアム)

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