博多ロック編<212>寮から抜け出して

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 福岡県・朝倉の伊藤エミは高校3年生のとき大学に進学するか、就職するか、迷っていた。「勉強は嫌い」。かといって就職といってもなりたい職業はそのときは明確ではなかった。学校から配布された就職先一覧表を上から目を追っていった。最後に記されていたのが「看護師」だった。看護師を目指したのはそんな消極的理由だった。

 卒業後、午前中は福岡市内の病院で見習いの仕事を、午後は看護学校に通った。全寮制。毎日、午後7時に部屋の前に出て点呼を受けた。その後、寮生は部屋の中で思い思いの時間を過ごす。

 伊藤は点呼の後、部屋の窓からそっと抜けだし、天神に急いだ。特に月曜日の抜け出しは欠かさなかった。フォーク喫茶「照和」に入り、いつも一人で最前列の隅に座った。月曜日は「甲斐バンド」の演奏日だ。

 伊藤が初めて生の音楽に接するのは高校時代だ。天神の岩田屋の屋上でギターの弾き語りを聴いた。

 〈ふと後(うしろ)をふり返ると そこには 夕焼けがありました 本当に何年ぶりのこと そこには夕焼けがありました…〉

 伊藤が「いいね」と声を掛けるとミュージシャンは「オリジナルじゃないんです」と言った。友部正人の「一本道」のコピーだった。伊藤の高校時代はフォーク全盛時代だった。

    ×  ×

 伊藤にとって「照和」のスターは甲斐よしひろだった。甲斐は「彼女はぽつんと座っていた」と語る。伊藤は「照和」に通ううちに、ステージ終了後は「甲斐バンド」と一緒に掃除をしたり、てんぷらが名物の屋台「喜柳」にも同行するようになった。

 2年間の看護学校の生活で資格も取得したが、看護師にはならなかった。客としてよく顔を出していた福岡市博多区の冷泉公園前にあったパブ「花じゃむ」との縁が伊藤の人生を変えていく。

 「花じゃむ」は福岡の若者食文化の革命児ともいえる溝上徹思が出店した1号店だ。先見の明があった溝上は大学生のときにミニコミタウン誌「Tessy」を創刊している。タウン情報だけでなく、アルバイト情報も掲載した画期的な先行するタウン誌だった。

 溝上は「花じゃむ」は「タウン誌の編集室のようなものだった」と言う。

 1972年、24歳で開店した「花じゃむ」を土台に次々と店舗を展開、拡大していく。そのチェーン店を総称して「てっしー村」と呼ばれた。

 伊藤は「花じゃむ」での溝上との出会いから博多ロックを看護することにな
る。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/07/28付 西日本新聞夕刊=

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