博多ロック編<213>長いライブハウス巡礼

 80年代の博多ロックを支えることになる伊藤エミが福岡市・大名の居酒屋「会者常離」の店長になるのは1970年の半ばころだ。「会者常離」はミニコミタウン誌「Tessy」を刊行していた大学生、溝上徹思が72年に開店した「花じゃむ」に続く居酒屋だった。「花じゃむ」に客として出入りしていた伊藤は溝上との縁から「会者常離」を任された。

 そこに客として登場するのがヒッピーたちだ。ヒッピーはベトナム戦争を背景に「武器ではなく花を」といった平和主義者の若者文化で、花柄模様の服を着たり、花を配ったりしたことから「フラワーチルドレン」とも呼ばれた。

 「『花じゃむ』の名前はこのフラワーと、ジャムセッションのジャムから取ったものです」

 溝上はこう言った。「会者常離」にはヒッピーたちがよく集まった。関東、関西から沖縄への放浪の最後の中継地が福岡だった。伊藤は言った。

 「沖縄への旅費を稼ぐためにヒッピーたちは天神などの路上で針金細工を売っていました」

 ヒッピーたちはミュージシャンも多く、「会者常離」ではまさにジャムセッション、即興のライブになることも少なくなかった。

 溝上は高校時代からバンド活動をしていた。「ライブハウスをしたい」。伊藤も「照和」や「会者常離」でのライブ体験によって同じ思いを抱いていた。溝上は伊藤を店長にした本格的ライブハウスをオープンさせる。

    ×  ×

 このライブハウスは同市・長浜の「倉庫」である。オープンしたもののライブハウス運営のノウハウを溝上も伊藤も持っていなかった。伊藤は溝上に言った。

 「全国のライブハウスを見て回りたい」

 溝上は了承した。ただこのライブハウス巡りが2年を超える歳月になるとは2人とも思っていなかったはずだ。

 伊藤が長く滞在したのは青森県弘前市のライブハウス「萬灯籠」だった。ここにはロックのレコードが数千枚あり、伊藤はそれをすべて聴いた。

 「これがロックの勉強になりました」

 溝上は「倉庫」をレストランとして営業し、2階には居酒屋「公民館」も開店させて伊藤の帰りを待っていた。「倉庫」はレストランとして定着していく。「倉庫」は幻のライブハウスにはなるが、溝上は親不孝通りに土地を買って新しいライブハウスを立ち上げた。もちろん、店長は帰ってきた伊藤だった。 

=敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/08/04付 西日本新聞夕刊=

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