博多ロック編<216>ライブは「フルノイズ」で

フルノイズ(右から2人目が武藤)=音楽誌「ブルージャグ」の表紙から(1984年) 拡大

フルノイズ(右から2人目が武藤)=音楽誌「ブルージャグ」の表紙から(1984年)

 福岡市・須崎のロック喫茶「ぱわぁはうす」は1978年に店を閉じた。この地下の空間は経営者を変えてライブハウス兼貸しスタジオ「ダークサイドムーン」としてその後、数年間はロックの灯を守っていた。「ダークサイドムーン」を拠点にしていた人気バンドが「フルノイズ」だった。

 同市・親不孝通りのライブハウス「80’sファクトリー」でも常連の出演バンドであり、モッズ、ロッカーズなどと並ぶスターだった。

 「フルノイズ」は「ぱわぁはうす」が閉店し、「サンハウス」が解散した78年に結成された。ギターで参加したのが武藤恭輔だ。

 「フルノイズ」の母体は72年にスタートしたバンド「春風馬亭」である。「春風馬亭」は井上マサル、中村晃二を軸としたバンドで、その後、井上が「フルノイズ」、中村は「ダイナマイトゴーン」を結成した。

 武藤は中学2年からギターを弾き始め、高校時代にはロックバンドを結成した。ブルースロックへの志向が強く、ブルース色が強かった「サンハウス」の「キング・スネーク・ブルース」などは定番のカバー曲だった。

 福岡ビル地下に「アウトリガー」というハンバーガー屋があった。ここは「サンハウス」のたまり場だった。毎日のように缶ピー(缶入りピース)を手に持ち、げたを履いた鮎川誠や九州で初めて金髪にしたといわれる柴山俊之が顔を出していた。

 高校生の武藤は「あれが柴山と鮎川だ」と遠くから眺める存在だった。博多ロックの第2世代の多くは良くも悪くも「サンハウス」の影響を受けている。逆に言えば、「サンハウス」の呪縛を解き、いかに自分たちのスタイルを確立するかが命題でもあった。

 「ヒートウェイブ」の山口洋は「フルノイズ」について次のように記している。

 「最初のローカルヒーロー。群れないところが途方もなく格好良かった…特別に好きなのは『OK』。今でもソラで歌える」

 「群れない」。山口のこの言葉を武藤は当事者から裏書きした。

 「嫌なものは嫌。人に迎合しない。これがバンドの姿勢でした」

 骨太でフリーなロック。東京のレコード会社からのオファーもあった。結局、メジャーデビューしなかったのはこのバンドのアマチュア性、つまり、商業性と相いれなかったポリシーと純粋さだったかもしれない。

 「フルノイズ」は自主制作のシングル盤1枚を残して消えていく。しかし、解散後、「フルノイズ」のサウンドは突然、CDとしてよみがえることになる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/09/01付 西日本新聞夕刊=

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