博多ロック編<224>自主運営のライブ

「ロックンロール・サーカス」のチラシ 拡大

「ロックンロール・サーカス」のチラシ

 ロックバンド「アクシデンツ」のボーカル、スマイリー原島の記憶に残るライブの一つは1983年の「ロックンロール・サーカス」である。このイベントの特色はロッカーたちの自主組織による自主運営のライブだった。

 イベントは主催者が出演者を集めて行うのが通常の形だ。企画からチラシやチケットのデザイン製作、販売まで丸ごとミュージシャンが主体的に関わったのが「ロックンロール・サーカス」だった。原島は「画期的なイベントだった」と振り返る。

 80年代初め、博多ロックのスター的存在だった「ロッカーズ」「モッズ」が上京した。また、ロックの拠点だったライブハウス「80s(’)ファクトリー」は82年に店を閉じた。博多ロックに空白が生まれた。原島を中心にした「博多のロックを盛り上げよう」との呼びかけに次の七つのバンドが結集した。

 アクシデンツ▽アンジー▽モダンドールズ▽ヒップス▽マーキーズ▽博多パラダイス▽ウイズ・アクション。

 幹事、副幹事をバンドの持ち回り制にした。こういった運動を外部からサポートしたのが「ジュークレコード」の松本康である。

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 83年当時、福岡市・大名に「多夢」というライブハウスがあった。七つのバンドはここを拠点にしていた。ただ、200人が入れるスペースではなかった。そこに白羽の矢が立ったのが同市・店屋町にあった映画館「富士映劇」だ。映画館でのロックのライブになった。

 松本は「スペース的にいいし、映画館の椅子の並びはステージが見やすいようにスロープになっていたこともよかった」と語る。

 「富士映劇」は映画産業の斜陽によって、通常営業をやめて自主上映会などに館を貸したりしていた。スクリーンの前にはちょっとしたステージがあり、また、このイベントのために映画館側は前列の椅子を取っ払い、ステージを広げた。

 出演した「マーキーズ」のボーカル、いときゆきは「大きくもなく小さくもなく、いい感じでした」と回想する。「マーキーズ」はこのイベントが事実上の解散ライブになった。

 この実験的な試みは「富士映劇」が貸しホール業もやめたこともあって3回ほど続いて終わった。

 博多ロックの80年代は多様性ということができる。ただ、多様性は底辺、すそ野を広げるが、中心点を見失う恐れもある。こうした状況の中での「ロックンロール・サーカス」は「博多ロック」のコアな部分の継承と確認に歴史的な意味があったといえるかもしれない。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2014/11/17付 西日本新聞夕刊=

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