大宰府の都市景観、扶余と強く関係 九博で百済研究講演会

 福岡県太宰府市の九州国立博物館で17日、記念講演会「七支刀と百済研究の最前線」が開かれた。3月1日まで開催中の特別展「古代日本と百済の交流」の関連イベント。日韓の研究者が百済研究の現状を報告し、意見を交わした=写真。

 韓国側は2人が登壇。国立公州博物館の金鍾萬(キムジョンマン)館長は、百済の武寧王の墓で発見された墓誌石の意義を「被葬者を明らかにしただけでなく、当時の葬儀や風習を今に伝え、古代史書『三国史記』の記述の正確性も立証した」と説明した。

 武寧王は佐賀県唐津市沖の加唐島で生まれたと日本書紀に記されている。金館長は、(1)武寧王の生誕に触れた史書が韓国になく、日本書紀が唯一(2)武寧王が、島で生まれたことを意味する「斯麻(しま)王」と呼ばれた(3)日本との交流を示す遺物がある‐を理由に加唐島生誕説に理解を示し、「伝承が島で受け継がれてきたことも事実だ」と述べた。

 国立中央博物館の李炳鎬(イビョンホ)学芸研究官は、百済が日本に瓦博士などの技術者を派遣した背景を解説した。日本初の本格的寺院である飛鳥寺の建立が始まった時期、中国で隋が登場し、朝鮮半島では新羅の国力が高まっていた。両国を意識した百済は「(日本との)外交の主導権を積極的に行使するため、仏教を媒介にした」と李さんは指摘した。

 一方、福岡県文化財保護課の赤司善彦課長は、大宰府と百済最後の都・泗〓(〓は「さんずい」に「此」)(現在の扶余)の都市景観を比べた。王宮など主要施設とそれを守る山城の配置、土木技法などが共通するため、「大宰府のマスタープランは、泗〓(〓は「さんずい」に「此」)の都城と強い関係性があったことは間違いない」と強調した。

 古代日本と百済の密接な関係を再認識する講演会だった。


=2015/01/27付 西日本新聞朝刊=

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