博多ロック編<232>夢を食べて生きた

「80’sファクトリー」でのライブ。中央が大田黒。 拡大

「80’sファクトリー」でのライブ。中央が大田黒。

 1980年代の博多ロックの黄金時代に青春を重ね、さらに、それがロックミュージシャンであれば大田黒恵美のように回想するだろう。

 「毎日、夢を食べて生きていた」

 福岡県大牟田市生まれの大田黒は小学校時代からアメリカのバンド「モンキーズ」のファンで、毎週、テレビドラマの「ザ・モンキーズ・ショー」を見ていた。日本語の吹き替えだった。

 「モンキーズはなんて日本語がうまいのだろうと当時、思っていました」

 高校2年生のときに同級生と女性バンド「姫丸団」を結成した。大田黒はサイドギターとボーカルだった。TNCテレビ西日本の音楽番組「エルモーション・ラグ」に出演してから一躍、注目を集めるようになった。

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 「うちのバンドに入らないか」

 「ウインド・ブレイカーズ」から誘いがあった。バンドの練習日は木曜日。大田黒は学校が終わるとセーラー服のまま電車で大牟田から福岡へ。練習場所のライブハウス「ダークサイド・ムーン」のトイレで着替えたりした。

 福岡の大学に進み、ようやく電車通いが終わった。20歳になって「自分の音楽を追求したい」とライブハウス「80’sファクトリー」に出入りしていた仲間たちと「ヒップス」を新しく結成した。

 ライブをすれば満員。カセットのテープもあっという間に売れる。ラジオのレギュラー番組を持った。83年には新しく「ティーンエージ・ニュース」を立ち上げた。バンドの離合集散の原因の多くは「音楽性の違い」だ。

 「私はロック、ロックしたものより、ポップなロックを志向していた」

 大田黒のオリジナルは100曲近くあるが、主にラブソングだった。いくつかのレコード会社から勧誘があり、25歳で上京した。結果的には「ティーンエージ・ドリーム」というシングル盤1枚だけを残すことになる。あるレコード会社は金をかけた「プロモーション・ビデオ」まで制作して後押ししていた。

 「当時、まだ若かったこともあり、レコード会社へすべてを預けることに思い切れなかったところがあった」

 27歳で「ティーンエージ・ニュース」を解散し、音楽から離れるためにニューヨークに渡った。そこで、博多のロッカーたちと知り合った。意気投合して「パールハーバー」を結成し、東京で3年近く活動した。

 35歳で大牟田市に帰郷し、家業を継いだ。音楽は時折、昔の仲間のライブにゲスト出演して歌うぐらいだ。大田黒は今でも思う。

 「タイムマシンがあればいますぐあの時代に帰りたい」

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2015/02/09付 西日本新聞夕刊=

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