さまよう核のごみ(1)の1 核のごみ 関心なかった

 核のごみには行き場がない。そのことを真剣に憂え始めた男がいる。

 1月20日午後、福岡市都心のビルの一室。高レベル放射性廃棄物に関するNPO主催の勉強会が開かれた。集まった主婦やサラリーマンたちに、金氏顕(かねうじあきら)(68)は語りかけた。「原発賛成、反対は別にして、何とかしないといけない」

 金氏は一市民であってそうではない。世界を代表する原子力プラントメーカー最大手、三菱重工業のOBだ。技術者として日本の原子力史のど真ん中を歩き、常務取締役まで上り詰めた。原子力エリートである。

 ◆「ここまでてこずるとは」

 原発は電力というエネルギーを生み出す。同時に放射線量の高い廃棄物、核のごみを生む。国内50基のうち関西電力大飯原発の2基しか稼働していないが、核のごみは各原発にたまっている。政府は地下300メートル以下に埋める地層処分を目指している。

 だが、地層処分する最終処分場の立地先は決まっていない。責任を負うべき電力業界は目をつぶったまま原発再稼働をうかがう。仮に全ての原発を廃炉にしても核のごみは残る。脱原発か推進かにかかわらず、解決しなければならない。

 原子力草創期、金氏たち技術者は核のごみの問題をどう考えていたのだろう。「関心なかったですよ」。処分方法についても「研究段階だったし、ゆっくり考えればいい、と。ここまでてこずるとは思わなかった」

 3・11以降も日本の将来のために原発が必要だという金氏の信念に揺らぎはない。「原子力村」と呼ばれることには抵抗がある。

 「でも、白い目で見られても、こういう場に参加しないと。私たち自身が原子力界の閉鎖性を内部から打ち破りたい」

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 日本初の商業用原発、東海発電所の運転開始は1966年。その翌々年、金氏は三菱重工業に入社した。当時は火力発電が主流。「配属された原子力の部署は10人ほどしかいなかった。何でもやらされましたよ。今は2千人規模ですが」

 70年代中盤以降、オイルショックなどを背景に日本は急速に原発を増やした。金氏は30年の間に九州電力の玄海1~4号機、川内1~2号機を含む計23基の設計・建設に関わる。

 当初はトラブルが続いた。そのたびに材質や構造を見直し、補修に奔走した。「原子炉の専門家だけじゃない。機械屋、電気屋、みんな死にものぐるいで一つずつ克服したからこそ、日本の原子力技術は世界一になった」。2004年に退職。高校まで過ごした北九州市に戻った。

 7年後。ニュースに目を疑った。福島第1原発、全電源喪失-。

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 「空冷の冷却器が必要だ」「あの対応で大丈夫か」。事故直後から、金氏ら60~80代のメーカーOB同士、連絡を取り合った。メールが100通を超えた夜もあった。

 役員のとき、台湾新幹線プロジェクトに関わった。日本の新幹線は開業以来、乗客の死亡事故を一度も起こしていない。安全性に関し、JRの技術者たちは頑固すぎるほどだった。数字を示しても納得しない。設計、保守、運行管理すべてにこだわった。

 金氏も原発の安全性を追求したつもりだが「あれほどの津波は盲点だった」と悔やむ。「慢心でしょうね。メーカーの立場から規制当局や電力会社に進言することがあったかもしれない」

 「技術屋」としての自負、そして反省。だからこそ、核のごみの問題にこだわる。「もっと対話をしなければ」

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 さまよう核のごみをどうするか。各国が悩む中、北欧のフィンランドでは最終処分場の建設計画が進む。どんな施設なのだろう。記者が飛んだ-。

 (敬称略)

=2013/03/02付 西日本新聞朝刊=

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