キャバレー編<117>秋吉敏子 福岡をステップに

福岡時代から天才といわれた秋吉(写真は2006年3月、大分県別府市であった渡米50周年記念コンサートで) 拡大

福岡時代から天才といわれた秋吉(写真は2006年3月、大分県別府市であった渡米50周年記念コンサートで)

 山口県下関市の加藤さとる(84)は進駐軍のキャンプ回りをしていたジャズメンだ。福岡時代、「ジャズの天才がいる」とよく聞いた。また、実際にその人のピアノを壁越しに聴いて「これは本物だ」と感じた。その天才ピアニストこそ世界の秋吉敏子(82)だ。

 秋吉が世界に昇りつめるステップの場になったのは福岡での演奏生活だ。秋吉は福岡時代について自叙伝『ジャズと生きる』(1996年、岩波新書)に詳述している。本書によりながら九州時代の足跡をたどってみた。

 秋吉は終戦後、旧満州(中国東北部)から病気治療もあって大分県・別府に引き揚げてきた。ある日、散歩中に「つるみダンスホール」の壁に「ピアニスト求む」との張り紙があった。中に入った。「おまえ、ピアノ弾けるのか?」と問われた。「はい」と答えると「今晩6時に来い」と採用になった。当時はミュージシャンが少ない時代だった。

 秋吉は満州時代の小学校1年のときに学芸会で、上級生の弾いた「トルコ行進曲」を聴いてピアノに引かれた。

 「私もあのように弾きたい、という思いで頭がいっぱいになり、母に頼んで、ピアノを習うようになった」

 クラシックだ。ダンスホールでは最初、本番前に「ピアノソナタ3番」を弾いた。「ピアノはよく弾けるね」と褒められたが、ジャズ演奏は素人だ。初日は「適当にブンチャ、ブンチャ」とやって終わった。秋吉を変えたのは一枚のSPレコードだった。ジャズピアニスト、テディ・ウィルソンの「スイート・ロレイン」。

 「一つ一つの音が同じサイズの真珠を並べたようで、こんなきれいな音楽がジャズなのか」

    ×   ×

 秋吉が別府から福岡に移ったのは17歳だ。憧れていた山田竜太郎のビッグバンドに入りたかった。会った。

 「一生懸命勉強するから、と言いながら泣いてしまった」

 雇われた。給料は5500円。6畳一間のアパート。土間でしちりんをおこし、煮炊きしていた。

 秋吉が山田のバンドで演奏していたのは福岡市・大名にあった進駐軍の将校クラブだった。最初は譜面通りの伴奏だったが、ある日、即興演奏のソロを入れた。終わって、山田がバンド全員を集めた。山田は「(秋吉の)プレイを聞いたか。ああいうふうにちょっと工夫したら」と褒めた。

 加藤は当時を振り返り「男女の区別なく、うまい者は正当に評価されたいい時代だった」と言う。実力だけの世界。逆に厳しい時代だったともいえるかもしれない。

 秋吉は山田のバンドで8カ月近く、腕を磨いた後、1948年夏に上京する。=敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/06/12付 西日本新聞夕刊=

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