キャバレー編<120>バンドボーイ 無給でも楽しい日々

 ジャズとみそ汁。この取り合わせの店が福岡市博多区中洲の人形小路の「みそ汁 田(でん)」だ。みそ汁を中心にしたこの小料理屋は今年で31年目を迎えた。いつもジャズがBGMとして流れているだけでなく、大将の田口隆洋(65)はかつて中洲のキャバレーなどのバンドマンだった。

 初めて触れた楽器は高校時代のギターだった。盲腸の炎症で修学旅行に行けなかったが、積立貯金のお金が手元にもどった。

 「このお金でギターを買い、グループサウンズの曲などを我流で弾いていた」

 佐賀から福岡の大学へ。ジャズ喫茶のレコードで聴いたベースの音に心奪われた。

 「だれの、なんの曲かはわかりませんでしたが、背筋がぞくぞくしましたね」

 そのころ、西中洲にナイトレストラン「ヴィラ88」の専属バンドは「太田幸雄とハミング・バード」だった。店のママが大学の先輩の親類だったことからこのバンドのバンドボーイになった。

 「昼間から店の床磨きから楽器の手入れなど雑用係でした。それも、無給です。ただ、置いてあるベースを弾くことができた」

 雑用だったが、手抜きはしなかった。バンドマスターから厳しく言い渡されていた。

 「バンドの仕事が本業で、学校がアルバイトのように思え」

 夜、アパートに帰るときにはバスもなかった。毎日、50分近く歩いて帰った。

 「それほど苦にはなりませんでした。歩幅でリズムを取って帰っていました」

 だれもベースを教えてはくれない。バンドの演奏を聴き、楽譜を読む練習。すべて独学だ。同じ店の別バンドのベースに空きができたのでそこに変わった。バンドボーイからバンドマンへ。半年でようやく無給生活から抜け出した。

 キャバレー「上海」や「赤坂」などでもベーシストとして演奏した。大学も遅れてどうにか卒業した。ただ、ジャズの長い演奏に手首が耐えられなかった。

 「少年時代に左手首を骨折したことがあり、そこのきしみを感じました」

 25歳でプロのジャズメンを降りることにした。ベースも売った。それから飲食業などを学び、「みそ汁 田」を開店した。

 8年前、昔のキャバレー仲間から「ジャズをやらないか」と誘われ、今は月1回、練習をしている。昨年の開店30周年記念パーティーでは常連客の前でジャズを披露した。

 みそ汁は「ダイコンと油揚げ」「ナスと油揚げ」など具によって16種類。「ダイコンとナス」といったアドリブも可能だ。みそ汁の店を始めたのは「中洲で働く人のために」との思いだった。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2012/07/03付 西日本新聞夕刊=

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