キャバレー編<123>クラリネット 米空母でも演奏

バンマス時代の下河(30代) 拡大

バンマス時代の下河(30代)

 人気のあった福岡市中央区唐人町のもつ鍋「蒼生弥(たみや)」が店を閉じたのは1年前である。店の大将だった下河正治(83)は「この店のおかげで40歳から実直な暮らしができました」と、骨折治療中の病院で語った。

 店を始めるとき、「忘れるために売った」という楽器から、もつ鍋屋以前の下河のもう一つの顔を手繰り寄せることができる。クラリネット。大将の前はキャバレーなどのバンドマンだった。古びたアルバムの中にはベニー・グッドマンばりにクラリネットを吹く下河の姿があった。

 京都に生まれ、15歳で海軍航空隊の志願兵になった。「小さいころから模型飛行機を作ったり、飛行機が好きでした」。高野山(和歌山県)の宿坊で寝泊まりしながら訓練をしていた。飛行機に乗ることなく、8カ月後には終戦を迎えた。

 母を幼いころに亡くし、終戦後、父親にも死別した。「一人で生きてゆかなくてはいけない」。親戚の紹介でありついた職が大阪の進駐軍専用クラブで演奏していた「飯山茂雄とゲイ・シックス」のバンドボーイだった。このバンドは南里文雄などを抱えて当時、一流のジャズコンボだった。メンバーのフィリピン人、レイモンド・コンデからクラリネットを習った。それまで楽器だけでなく、音楽そのものにクロスしたことはなかった。

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 19歳のときに、大阪から進駐軍専用列車で福岡に移った。進駐軍関係者から「ギャラのいい仕事がある」と言われた。引き抜きだ。福岡では九州の芸能界の中心人物だった深見俊二のプロダクションに入り、クラブ「桃山」での演奏のほか、長崎県佐世保市のキャバレーなどでも演奏した。サックスも吹いた。

 佐世保時代に「忘れられないことがある」と言う。寄港していた米国の航空母艦「エンタープライズ」の甲板に立ったことだ。搭載機のライトをスポット代わりにして仲間とジャズを演奏した。「こんな所でクラリネットを吹くなんて思いもしなかった」。戦うはずだった米軍の航空母艦での演奏に驚くと同時に、歴史の皮肉も感じたのかもしれない。

 もう一つの記憶は「博多パラダイス」の少女歌劇団を指導したことだ。この欄で紹介した貝島君子、川崎節子などに教えた。「みんな非常に熱心でした」

 生きるために。食べていくために。戦後の混乱を偶然に出合ったクラリネットでしのいできた。時には羽振りのいい時代もあったが、自分には「合ってない」という思いがどこかにあった。

 40歳から楽器に触れたことはない。もつ鍋のおいしさだけを追求してきた。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/07/31付 西日本新聞夕刊=

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