キャバレー編<126>音楽哲学 希望や勇気のために

「音楽は希望」と語る宮島 拡大

「音楽は希望」と語る宮島

「ミナミ」時代の宮島。40歳の時

 福岡市博多区の宮島清二は80歳になった今でも毎日、カラオケ教室で指導している先生だ。

 「この年になっても音楽に関わっていられるのは幸せです」

 カラオケの指導ができる下地は1995年、店を閉じた同市のキャバレー「ミナミ」のバンドマン生活にあった。

 「ミナミ」は大キャバレーとしては福岡だけでなく、日本でも最後まで営業していたキャバレーの一つだ。

 宮島は「ミナミ」のビッグバンドのドラマーとして23年間、ステージに立ち、途中からバンマスを務めた。キャバレーの衰退期には店を維持するために、ダンス客のために昼間も営業した。また、経費を抑えるためにフィリピンダンサーのショーを打った。ボーカルもあり、フィリピンシンガーの指導はもっぱら宮島が受け持った。

 「日本語のよくできないシンガーに五輪真弓の『恋人よ』など日本の歌を教え込む。それもピアノを弾きながら。ピアノはそれまでしたことがなく、見よう見まねでした」

 宮島は歌は得意ではなかった。ただ、日本人の有名歌手の伴奏もしていただけに、歌手の声の出し方、節の付け方などは自然に覚えていたのだ。これがキャバレー閉店後の宮島を支えることになる。

   ×    ×

 宮島は広島県呉市生まれ。呉には海軍の軍楽隊の流れから戦後にはジャズのビッグバンドがあった。そのバンドのドラマーから習ったのがこの道に入るきっかけだった。

 「やるからには一流になりたいと思っていました」

 すでに、高校時代から地元のダンスホールなどで夜は演奏したりしていた。高校卒業後は地元周辺のキャバレーなどドラムを叩(たた)き、本格的なバンドマンの暮らしを始めた。

 友人の誘いやその腕を見込まれて岩国、広島、大阪などを転々とした。特に岩国での進駐軍キャンプではジャズ漬けの日々だった。

 「そのときのバンマスが一流の人で、演奏についていけない。音が漏れないよう布団を被(かぶ)ってレコードを聴いたりした。死に物狂いでジャズを勉強した」

 進駐軍のバンド仲間のつながりで、福岡へ来たのは26歳ごろだ。キャバレー「月世界」で8年間、演奏した。宮島の内面で変化があったのはこのころだ。

 「自己満足の音楽ではなく、人に希望や勇気を与える音楽を考えるようになりました」

 週1回、市内の公園で仲間たちと市民コンサートを開いた。20年間も続いた。

 希望や勇気のために。この人生、音楽哲学は今も変わらない。音楽の場は違ってもカラオケ教室での指導もまた、同じ哲学の上にある。 =敬称略

(田代俊一郎)


=2012/08/21付 西日本新聞夕刊=

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