キャバレー編<127>スクールメイツ そばに歌あればこそ

「キャバレーで勉強した」と話す青井 拡大

「キャバレーで勉強した」と話す青井

 1970年代の初め、福岡市のKBCテレビでは長沢純が司会する公開バラエティー番組「パンチヤングFUKUOKA」を放送していた。

 エンディングは毎回、洋楽に合わせて踊る「スクールメイツ」のステージだった。その数十人の踊り手の中に、当時、高校生だった青井和子もいた。

 番組のレギュラーとしてバンド「チューリップ」も出演していた。

 「あまり、印象に残っていません。というより、うまく踊れるか、自分のことに必死になっていました」

 今の「AKB48」に似た「スクールメイツ」は歌手、ダンサーの養成所で、60年代後半には福岡にもあった。

 「歌手になりたいと思っていたからオーディションを受けて合格しました」

 長崎県佐世保市の自宅と福岡を往復する生活も好きな歌のために苦にはならなかった。楽譜を覚え、発声や踊りの練習をする忙しい毎日だった。18歳のころ、福岡市のキャバレー「月世界」で、ジャズのビッグバンドを率いていたバンマスの深見俊二から「店で歌ったら」と誘いがあった。

 「歌謡曲よりも洋楽に興味があったからうれしかった」

 布施明、奥村チヨなどの九州公演にも付いてまわり、前座で歌う仕事もあった。

 「シンガーが少なかったんですかね、仕事はいくらでもあった」

 「月世界」で2、3曲を歌うと、そのままのドレス姿で楽譜を抱えてタクシーに乗って別のキャバレーやクラブに急いだ。連日、掛け持ちのステージだった。

 「景気がよかった。月に当時のお金で70万円くらいは稼いでいました。お金はドレスや楽譜代に使いました」

    ×   ×

 50代になった青井は現在、同市中洲のスナック「シャングリ・ラ」のママだ。この店を開いてすでに25年になる。店の壁には日本を代表するジャズピアニスト、世良譲などのサインがある。

 「世良さんとは共演したこともあるので、店に立ち寄ってくださいました」

 「月世界」の後は、クラブ「桃山」をはじめ多くのクラブなどでステージに立った。ジャズ喫茶「リバーサイド」「コンボ」でのライブに参加したこともある。こうしたジャズシンガーとしての活動が現在の店の基盤にあることはいうまでもない。いや、もっと言えば、「スクールメイツ」時代のレッスンやステージ経験がその後の人生を決めたことになる。

 青井は店のピアノに合わせ、今も歌う。

 「歌があったからこそ、ここまで生きてこれました」

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2012/08/28付 西日本新聞夕刊=

PR

PR

注目のテーマ