キャバレー編<132>ドラマー ブレイキーになれなくて

「また、音楽をやりたくなった」と話す井上 拡大

「また、音楽をやりたくなった」と話す井上

ドラムを叩く(「赤い靴」時代)

 「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」でデビューしたシンガー・ソングライター、大塚博堂が37歳で急死したのは1981年のことだ。大塚はデビュー前、福岡市・西中洲のクラブ「長島」などで歌っていた。

 「博堂の歌唱力は群を抜いていて、いずれ世に出る男だと思っていた。デビュー曲はハイトーンでびっくりしました。当時は低い声で歌ってましたから」

 中洲でもつ鍋「豆狸(まめだ)」を営む井上省吾(64)は当時、このクラブでドラムを叩(たた)いていた。高橋真梨子など多くのシンガーの伴奏をした井上にとってただ一人、印象に残っているのが博堂である。井上はこの店を最後に30歳で音楽生活から足を洗うことになる。そのこともあって、井上の脳裏に鮮明に刻まれているのかもしれない。

 店では2ステージの演奏があった。口あけの1回目は客もあまりいないからバンドは自由にジャズをやった。アドリブなど入れて、一曲だけで延々と30分の演奏になることもあった。「その厳しいセッションについていけずに辞めた。今、その選択はよかったのだと思っています」

    ×   ×

 「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」の福岡公演は1963年だ。そのステージに「鳥肌が立った」と感動したのが井上だった。中学卒業後、同市・新天町の「三鷹スポーツ」でテニスのガット張りをしていた。「ブレイキーのドラムはすごい」。ドラマーを夢見て、川端町にあったダンスホール「慕情」の一番前の席で毎日、バンドのドラマーを見ていた。

 「バンドマンの中に知り合いがいてドラムをやってみないか、と声を掛けられました。叩かなくてもいいから、と。バンドボーイみたいなものですね」

 「慕情」の後は「金馬車」「白い森」「赤い靴」などを経て、「長島」へ。10代後半から20代をドラマーとして送ることになる。

 演奏の合間の休憩のときにはアルバイトとしてストリップ劇場での演奏もあった。

 「踊り子さんがサービスと言ってチラっとしてくれたりもしました」

 30年前に「豆狸」を開いたとき、まだ、もつ鍋ブームの前で中洲では珍しかった。この30年間、音楽を捨てて、店に専念した。ただ、最近、ドラムセットを買った。

 「不思議ですね。急に叩きたくなった。ドラムのブラッシングはたまらない」

 この日の朝も山下達郎のCDを掛けながら、ドラムで参加した。

 「筋肉痛になることもあります。年ですかね」

 井上はこう笑う。アート・ブレイキーになれなかったが、いずれ大塚博堂の曲を掛けながらドラムを叩く日も来るだろう。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/10/09付 西日本新聞夕刊=

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