キャバレー編<134>波瀾万丈 戦後史詰まったドラム

「まだまだ、たたけるよ」と話す藤本 拡大

「まだまだ、たたけるよ」と話す藤本

 福岡市中央区の藤本晃は来月、40年間勤めたヤマハの音楽教室を退く。83歳での卒業だ。ドラムを教えた生徒数は「千人を超える」と言う。「波瀾(はらん)万丈の人生でした」。ドラム一つと時代がその人生を創造することになる。

 戦後まもなくのころだった。「買い物ブギ」などのヒットで知られる笠置シヅ子の全国ツアーが佐賀市であった。市内の紡績工場で働いていた藤本はこのコンサートに行った。藤本の視線をクギ付けしたのは笠置ではなく、バックバンドのドラムだった。

 「ドラムは一番後ろにいるが、とにかくかっこよかった」

 工場の仲間たちと見よう見まねでジャズを始めたとき、藤本が選んだ楽器がドラムだった。

 「どこかの古道具屋さんでドラムを買ったんでしょう。でも、ドラムセットというより、大太鼓小太鼓の感じでした。でもドラムの皮に『JAZZ』なんて書いていました」

 働きながら夜は同市内のダンスホール「セントラル」でアルバイトしたり、当時、ヒットした「長崎シャンソン」の歌手、樋口静雄(大分県日田市出身)の九州ツアーにも参加した。

 知人の紹介で、福岡市の大濠公園内にあった米軍キャンプ内の専属バンドに入った。「ところが、譜面通りにいかない。バンマスが『メモリー(譜面なし)で行こう』と言って、その場をしのぎましたが、一週間で辞めました」

    ×   ×

 次もまた、紹介されたのは同市東区の米軍の西戸崎キャンプだった。ここでドラマーの腕を磨くことになる。「兵隊同士の大乱闘があり、イスや灰皿が飛び交う中、演奏したこともありました」

 さらに紹介で、中洲のキャバレー「キング」へ。ここではバンマスがオーナーの女性と親しくなり、バンド全員、首になった。次は福岡県遠賀郡芦屋の米軍キャンプだった。

 その後は福岡市のキャバレー「月世界」から「太田幸雄とハミングバード」に参加して、サパークラブ「88」、クラブ「太宰」などでジャズを中心に演奏してきた。このバンドは20年前に解散。藤本の仕事の比重はすでに並行してやっていたヤマハのドラム教師に移った。

 福岡の戦後風俗史、音楽史はダンスホール、米軍キャンプ、キャバレー、クラブでたどることができる。藤本のドラムにはこの戦後史が詰まっている。

 3年前に昔の仲間たちとライブをした。そのときのバンド名は「チャンGズ」。逆さ読みすれば「爺チャンズ」。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/10/23付 西日本新聞夕刊=

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