キャバレー編<135>プロとアマ 川を越えて修業へ

「キャバレーは憧れの場でした」と語る古澤 拡大

「キャバレーは憧れの場でした」と語る古澤

 福岡市中央区の警固小学校近くにかつて映画館「赤坂劇場」があった。学校の春休み、冬休みには警固小の児童に割引券が配られた。同区のギタリスト、古澤慈之(57)は同小5年のころ、割引券を使って上映中の「ゴジラ」を観(み)に行った。

 「2本立てで、もう一つは加山雄三の『エレキの若大将』。ゴジラより、こちらがかっこよかった」

 古澤少年は翌日から学校の備品の三角箒(ぼうき)をギターに、バケツをドラムにした。高校になると三角箒は本物のエレキになり、バンド活動が始まった。後年、「若大将になりたかった男」を歌い文句にしたバー「田能久(たのきゅう)」を一時期、開いたことがある。「田能久」は映画の中で、若大将の実家であるすき焼き店の名前だ。加山雄三の影響で、ギタリストが誕生したことになる。

 「店名は直接、加山さんに会って、了解を取りました。キャバレーでも加山雄三の曲を演奏したこともあります」

 古澤は大学中退して渡英。ブリティッシュロックの魂を身を持って体験したいと思ったからだ。2年後に帰国し、同市天神のライブハウス「照和」に出演するようになった。同時に、那珂川を越えた中洲のキャバレー「ニューセーフティゾーン」のバンドマンとしてステージに立った。

 1970年代の福岡の音楽シーンは「照和」を中心に語られるが、同時期、中洲にはキャバレー音楽があった。

 「『照和』はアマチュアであり、中洲はプロ。中洲での演奏には憧れがありましたし、中洲のバンドマンは『照和』なんて…と思っていたようです」

 キャバレーはスイングジャズのビッグバンドとコンボ編成のラテンバンドが交互に演奏するのが「定型」だった。古澤の働いたキャバレーはビッグバンドとコンボの二つがあったが、そのコンボはロックだった。「定型」が崩れ、ロックという新しい音楽がキャバレーにも入ってきた。ジャズとロック。同じキャバレーの中で、バンド間の静かな戦いもあった。

 「バンドの入れ替えのとき、同じ曲を弾きながら入退場するんですが、ジャズバンドの方から音程を変えたり、アドリブを入れたり、意地悪な行為もありました」

 キャバレーの後はディスコでも演奏するなど新しい時代の流れの中を泳いでいく。

 30歳代は「田能久」のマスターをやり、その後はサラリーマン生活も経験するが、ギターを手放したことはない。ライブやツアーを行い、近く、また、新しいバンドを結成し、オリジナル曲での勝負を考えている。

 キャバレー生活は約2年。「自ら修業のためにキャバレーに入った。一番、勉強した時代ですね」と振り返る。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/10/30付 西日本新聞夕刊=

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