キャバレー編<136>証し 自分のサウンドを
「人間はどうして生きていくのか。自分が生きている証しはなにか。それを残したい」
福岡市中央区のイベント会社に勤める松尾光信(59)がこのような人生の哲学的命題を考えるようになったのは、佐賀県唐津市の小学校時代だった。早熟で、思慮深い少年だった。幾日もその難問に向かい、出した結論は音楽だった。「レコードを残せばいい」。中学に入ると迷わず、ブラスバンド部に入部した。
「トランペットを買ったのは中学2年生でした。楽器を買えばその担当になる仕組みでした」
高校でもブラスバンド部に入った。福岡市・中洲のキャバレー「リド」で、バンドマンをしている先輩がいた。週末になると先輩を頼って「リド」へ遊びに行った。
「リド」は四角の空間で、100人の接客女性がいた。バンドはビッグバンドにコンボ。本番の演奏を見たり、昼間の練習では時折、演奏に参加し、バンドとは顔見知りになった。
「ジャズはいいな、という思いからジャズをやりたい、との気持ちになりました」
「リド」から「うちに来ないか」との話があり、バンドボーイとしてキャバレーの世界に入った。
「最初は無給でした。数カ月後、サックスに空きができたので、その楽器に変わった。それからですよ、ギャラをもらい始めたのは」
キャバレーは店を変わるたびにギャラが上がる。半年、1年で店を移るバンドマンも少なくなった。松尾は「リド」に8年近くもいた。
「居心地がよかったんでしょうね」。こう言うが、松尾の胸の片隅にはギャラよりもなにか大切なものがある、という思いがあったに違いない。少年時代に抱いた生きている証しを一つの店でじっくりと追求したいとの思いだ。
× ×
松尾と会ったとき、忙しい最中だった。NHKの「のど自慢」の伴奏用の楽譜を書いていた。予選では200曲以上を伴奏する。このうち、楽譜のない曲が約20もある。それを松尾が仕上げるのだ。
「リド」の後、「月世界」などを経て、32歳で中洲とその周辺のバンドマンから退く。その後は歌謡ショーの演奏やサックスを教えたりして、音楽の道を歩き続けている。キャバレー時代について次のように回想する。
「音楽のパワーがすごかった。バンドマン同士で競い合っていましたからね。演奏する場所はいくらでもあった」
還暦を控えた松尾は少年時代の問いに答えを出したのか。
「レコードもCDも出していませんね。自分の、松尾サウンドを完成しなければ」
未完。今なお、途上だ。 =敬称略
(田代俊一郎)
=2012/11/06付 西日本新聞夕刊=