キャバレー編<140>昼の音 新人たちの負けじ魂

「ドラム一筋です」と話す森 拡大

「ドラム一筋です」と話す森

 福岡市の歓楽街・中洲の昼間は不夜城のにぎわいがうそのように閑散としていた。

 1970年ごろ、二十歳前の森建二はキャバレーへの道を急ぎながらあちこちの建物から漏れ、流れる音を聴いた。トランペット、ドラム、ギター、サックス…。

 「よおし、おれも負けられないな」

 何度も自分に言い聞かせた。

 キャバレー、クラブなどの新入りのバンドマンたちが必死に練習している音だった。

 長崎県・対馬から中学を卒業後、先に福岡で就職していた兄を頼って、同じ電気工事店で働くようになった。2年後、兄はキャバレー「麗(うるわし)」のウエーターへ転職した。兄は建二が対馬時代から「歌手になりたい」と言っていたことを覚えていた。誘った。

 「キャバレーに来ないか」

 建二はそのキャバレーのバンドボーイになった。使い走りだった。5千円の月給と時折、バンド演奏で石原裕次郎の歌などを歌うことができた。

 バンドのベースが空いた。バンマスが言った。

 「ベースをやれ。立っているだけでいいから。弾くまねをしろ」

 バンドマンが店を移るときのルールに40日前通告があった。40日間は次のバンドマンへの引き継ぎの日数だった。建二は初めてベースを手にした。ベースは好きになれず、いまひとつ、練習に身が入らなかった。ただ、譜面が読めるようになった。半年後、ドラムが空いた。そこに移った。

 「ドラムの音は目立つ。懸命に練習した。人生の中でこんなに充実した日はありませんでした」

 午前10時から、ウエーターが出勤する午後4時までドラムをたたいた。

    ×  ×

 1970年代後半、キャバレーの灯が消え始めたころまで「月世界」「センチュリー」「プレイメイト」など中洲、清川などのキャバレー、クラブを転々とした。店を変わるたびに月給は1万~1万5千円、上積みされていった。

 建二は61歳になる。17歳でバンドボーイになってから45年間、中洲とその周辺で生きている。現在はライブハウス「タイムトリップ」のマスターだ。この店を開いて20年になる。店のバンドで今も毎日、スティックを握っている。

 この店はダンスフロアがあり、ツイストだけでなくジルバ、マンボも踊れる。生バンドにダンス。接客嬢がいないだけで、キャバレーの形を残しているともいえる。

 「年配のお客さんも少なくありません。それとキャバレー時代のバンドマンたちが顔を見せますね」

 キャバレー時代に少しはタイムトリップできる空間の店といえるかもしれない。=敬称略

 (田代俊一郎)

=2012/12/04付 西日本新聞夕刊=

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