キャバレー編<142>進駐軍 戦後の歌のスタート

板付キャンプで演奏する日本人バンド 拡大

板付キャンプで演奏する日本人バンド

 進駐軍という言葉は歳月の中で忘れ去られつつある。「進駐軍のキャンプ(基地)では…」と今もある生々しさを持って回想するのがキャバレーのバンドマンたちだ。

 進駐軍はいうまでもなく占領軍のことだ。武装解除など13項目からなるポツダム宣言を受諾して太平洋戦争の終戦を迎えた日本に、宣言遂行のために、米国中心の連合国軍が進駐してきた。

 進駐軍の数は二十数万人ともいわれ、福岡地区にも5千人に近い米軍が展開した。1952年から発効したサンフランシスコ講和条約によって、日本は占領体制を解かれて主権を回復、独立国家として歩み始める。これによって進駐軍は撤収するが、「在日米軍」と名前を変えて駐留する。

 音楽評論家の北中正和の著作『にほんのうた-戦後歌謡曲史』(新潮文庫)は「米軍キャンプとジャズ」という項目からページをスタートさせている。

 「戦後歌謡曲の歴史をジャズから始めるのは…それほど唐突な見方というわけではありません…(戦後に)日本人がラジオで新曲として聞いたポピュラー音楽の多くは…ジャズだったからです」

 戦後まもなくのマスメディアはラジオで、占領軍は検閲としてラジオコードを発令した。米軍向け放送やNHKでジャズを流した。米国音楽の象徴であるジャズによる文化戦略の一つだ。この放送を聴いてジャズの道に入ったバンドマンは少なくない。

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 福岡にも板付、西戸崎の米軍キャンプなどができ、キャンプ内では兵士の娯楽としてジャズが演奏された。その演奏者は日本人ジャズメンだった。

 「出演者のギャラはすべて日本政府の負担でした。47年のその支出は3億円…街に失業者や浮浪者があふれ…この時期ミュージシャンは…フルコースの食事やタバコやチョコレートのおみやげつきの仕事にめぐりあえた」(同書より)

 福岡のバンドマンの一人は「キャンプで初めてコーラやピザを口にした」と語っている。

 いわば「キャンプバブル」の時代があり、福岡でもバンドマンをキャンプに送り込む派遣業者がひともうけして、それを元手にキャバレーを開くのが一つの形でもあった。また、キャンプ撤収の後、バンドマンの仕事、生活を支えたのはキャバレーだった。

 バンドマンだけでなく雪村いづみ、江利チエミなど戦後歌謡を彩る多くの歌手たちも各地のキャンプで地力をつけ、キャバレーで人気をのばしていった。

 板付キャンプで演奏したことのある福岡のベーシスト、川上俊彦(72)は「私のバンドマン生活はここから出発した。キャンプ内で食べたサラダのドレッシングの味にびっくりしました」と語る。=敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/01/08付 西日本新聞夕刊=

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