キャバレー編<143>看板描き 彩色が命の世界

「色つけで看板は変わる」と話す寺本 拡大

「色つけで看板は変わる」と話す寺本

 「手元には作品は一つも残っていません。最後まで歌手の小柳ルミ子さんの看板は持っていましたが、それも捨てましたね」

 「木村タクシー」の運転手、寺本光吉(67)は60歳まで看板描きだった。

 熊本県荒尾市生まれ。地元の中学時代、新聞配達のアルバイトをしていた。店にはいつも映画の招待券があり、映画館「有明東映」に行くのが最大の楽しみだった。卒業後、福岡に嫁いでいた姉の夫から「映画の看板描きにならないか」との誘いがあった。義兄は福岡でも知られた映画館の看板描きだった。

 「絵は下手でしたが、映画が好きだったからその道を選びました」

 義兄の紹介で「原口看板」に弟子入りした。住み込みで最初の月給は千円。3畳間に弟子3人が寝泊まりし、深夜に仕事が終わってもそれから1時間、看板描きの練習が決まりだった。

 「とても師匠は厳しく、2年間くらいはよく頭をこづかれました」

 契約の一つは「5年間、辞めないこと」。

 「義兄が仲に入っておるので、辞めるに辞められなかった」

 看板描きは映画の写真を拡大鏡を通して、板に映し出し、線でスターの容貌を縁取る。それに色をつける。一流になれば、写真を見ながら描いた。当時、総天然色(カラー)と白黒映画が混在していた。「似てない」と言われればそれまでだ。

 「看板描きの難しさは色つけ。それ一つで決まる。彩色が命の世界」

 映画が終われば、その看板を塗りつぶし、新しい看板を描く。作品は残らない。

    ×  ×

 看板は映画館に掛ける巨大看板と小さな街頭看板があった。初めて描いた街頭看板がショーン・コネリー主演の007シリーズ「ロシアより愛をこめて」(1964年公開)。

 「街で自分の看板を見るとうれしかった」

 映画だけでなくキャバレーからも声がかかった。「ミナミ」では従業員として働いた。「北島三郎ショー」「鶴田浩二ショー」などあらゆる歌手の看板を描いた。看板描きの部屋はロッカーの奥にあった。

 「接客の女性が裸で着替えているところを通って部屋に行ってました」

 キャバレー「赤坂」での黒沢年雄ショーの看板は黒沢本人が「いいね」と折り紙をつけた。

 映画からキャバレーの看板描きの生活。しかし、時代の流れで映画広告はポスターになり、キャバレーは消えた。以後は企業広告の看板を描いた。

 「ポスターは看板と違って味気ない」

 30歳から空手などの格闘技も習っている。キックボクシングを習いに行ったタイを気に入っている。70歳になったらタイでの半永住も計画している。

 「そこで再び、筆を執ろうかと思っています」

=敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/01/15付 西日本新聞夕刊=

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