昭和流行歌編<149>松平 晃 明るいユーモリスト

旧制佐賀中時代の松平 拡大

旧制佐賀中時代の松平

 松平晃は佐賀師範付属小学校から旧制佐賀中学(現・佐賀西高など)へ進学した。佐賀中は藩校弘道館を母体にした、葉隠精神を継承する質実剛健を校風にしていた。松平も霜降りの学生服に巻きゲートル姿で通った。

 「海軍士官熱の高い佐賀中で音楽をやるのは堕落書生だ」

 松平はこう記しているように、軍人志望者が多かった。そうした中で、松平は異彩を放った。同窓生の一人は「きかん気の持ち主だが、情にもろく、歌や手品でクラスの人気を独占していた」と語っている。1961年に死去する前年、東京の自宅に訪ねてきた後輩に学生時代の一ページを回想している。

 「在学中にストライキがあり、上級生が登校する下級生を追い返した」

 「女子師範生と行き会うとオバチャンとからかった」

 「級友がけんかがばれて停学処分になりかけたのを嘆願書を出してくいとめた」

 「佐賀劇場にはマントをかぶって芝居や歌の見物にでかけた」

 この後輩が帰るとき、松平はバス停まで見送った。「バス代は小銭の方がいいから」と、後輩に紙包みを握らせ「またきんしゃい」と声をかけた。

   ×    ×

 松平は1930(昭和5)年の卒業生だ。同窓会組織に「昭五会」があった。流行歌手になっても同窓会には必ず出席し、佐賀弁丸出しで語り、歌った。松平の葬儀で「正五会」の代表、百田正弘は「ぞったんのごと。おどんがそぎゃん早く死んもんか。ふーけらしか」と佐賀弁を交えながら弔辞を読んだ。

 「殺風景な学生生活の中にあって君の明るい開けっぴろげな性格とたくまざるユーモリスト的性格を級友は敬愛していた」

 松平の孫で、東京都目黒区の眼科医、福田匠(38)も母親から松平について「明るくおもしろい人でした」と聞いている。母親は松平の一人娘で童謡「北風小僧の寒太郎」などの作曲で知られる福田和禾子(わかこ、2008年死去)だ。

 松平の天性の明るさは級友から愛されていた。ただ、将来の選択については苦悩していた。学校、両親などが音楽志望には反対、四面楚(そ)歌(か)の中で唯一、京都帝国大生の兄、新が「好きな音楽で身を立てろ」と後押しした。

 1934(昭和9)年11月の佐賀毎夕新聞は「待望の日は遂に来た」「行けよ佐賀劇場へ」「謳歌せよ、われらの松平晃」「同窓生も応援」といった大見出しで松平の地元凱(がい)旋(せん)公演を連日、報道している。

 ‐その4年前。松平はこのような流行歌のスターとして故郷に錦を飾るとは夢にも思わなかった。クラシックの声楽家を目指して武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大学)声楽科に進学、佐賀駅から一人で汽車に乗り上京した。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/02/26付 西日本新聞夕刊=

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