昭和流行歌編<150>松平 晃 岐路に立つ苦学生

下宿先の庭に立つ松平 拡大

下宿先の庭に立つ松平

 松平晃は東京・芝の下宿部屋で「どうしょうか」とため息をつく日が多くなった。

 佐賀から武蔵野音楽学校(現・武蔵野音楽大)に進学したが、1年後に東京音楽学校(現・東京芸術大)へ転学してまもなくのころだ。

 「貸室 音大生に限る」。この下宿は新聞の三行広告を見て、決めた。クラシック好きな内科医、上沼健衛の家で、松平の部屋は「奥の部屋」と呼ばれた8畳間だった。専用玄関があり、部屋から直接、庭に出ることもできた。音楽の勉強に飽きるとこの庭に出て気分転換をした。

 松平がため息をついたのは声楽の上手下手ではなかった。学校ではドイツ留学で西洋音楽を学んだ新進気鋭の船橋栄吉、木下保などに師事し、持ち前のバリトンで、声楽家の道を進んでいた。

 苦学生だった。家は農業で、音楽学校に行くこと自体がぜいたくだった時代だ。仕送りも少なかった。同じ学校の先輩、藤山一郎は楽譜を書き写す「写譜」のアルバイトをし、東洋音楽学校(現・東京音楽大)の淡谷のり子は画家のモデルをしながら学費を稼いでいた。

 「連帯保証人で、破産した。新(松平の兄)の病気の治療代もいる。もう、田畑も売った」

 佐賀の実家からの連絡だった。こういった事情を知っていた大家の上沼は時折、弁当代として松平に50銭玉(当時の映画代に相当)を渡すなどなにかにつけ気にかけていた。上沼家では家族の一員だった。物心両面で支援を受けていた。

 「退学するか、アルバイトをするか」

 松平は人生の大きな岐路に立っていた。

   ×    ×

 松平の下宿時代について上沼の次男の上沼光紀(83)はうっすらと覚えている。小学校入学前のことだ。断片的な記憶の中で、今も鮮明に残っていることがある。

 「フォードの後部座席に乗せてもらっていろんなところに連れていってもらった」

 昭和初期に松平は高価な外車に乗っていたのだ。また、こういうこともあった。光紀は理髪店に行くとほかの客から「光ちゃん、松平晃はなにしてる」と聞かれた。光紀にとって松平は本名の福田恒治でしかなかった。「すぐにピンときませんでした」

 居間の掘りごたつでよく遅くまで家族一緒に談笑することがあった。松平は「光ちゃんは早く寝なさい。中学生になったら腕時計を買ってあげる」と約束した。

 2、3年の間に松平の生活は貧乏学生からフォードを乗り回し、近所も注目するスターへ劇的な変身をとげていた。変化の背景は音楽メディアの革命だ。それは「流行歌の時代」のスタートでもあった。

 クラシック志望だった苦学生の松平晃、そして藤山一郎、淡谷のり子もその大きな渦の中に巻き込まれていく。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2013/03/05付 西日本新聞夕刊=

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