昭和流行歌編<151>松平 晃 再生された声

松平が使っていた蓄音機 拡大

松平が使っていた蓄音機

 松平晃の孫、福田匠(38)は東京都目黒区の自宅で手回しのレコードプレーヤー、蓄音機に手を置いた。松平の遺品だ。蓄音機に載せた毎分78回転のSP(スタンダード・プレーイング)レコードがゆっくりと回り始める。松平のヒット曲「サーカスの唄」(西条八十作詞、古賀政男作曲)が、昭和8(1933)年の発表から80年後の現在に流れた。

 〈旅の燕(つばくろ) 寂しかないか おれも寂しい サーカス暮らし…〉

 福田が生まれたのは松平の死去のあとで、実際に祖父の肉声を聞いたことはない。蓄音機の音量は小さく、音質もよくない。それでもナマではないが、再生された「声」を聴くことができる。福田は言った。

 「なんとも、きれいで優しい歌声で、温かい気持ちになりました」

   ×    ×

 松平の遺品の蓄音機は「コロムビア202」で、大正10(1920)年前後の製作とみられる。文明開化で外国から輸入された蓄音機、レコードも明治末には「日本蓄音器商会」(後の日本コロムビア)などによって国産化され、徐々に普及しはじめていた。

 〈カチューシャ可愛(かわい)や わかれのつらさ…〉

 劇団芸術座の公演「復活」(トルストイ原作)の劇中歌として主演の松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」は大正4年にレコード化されてヒット、学生の一部では「歌唱禁止令」まで出るなど社会現象を巻き起こした。

 歌はもともと一回性のものだ。歌えば消えていく。明治、大正時代の民謡、自由民権運動の演説歌(演歌)、唱歌もその場だけの歌だった。肉声の届く範囲は限定され、聴衆はごくごく少数だった。それは口から口へ、耳から耳に伝わる「はやり唄」だった。歌手は「人間レコード」だった。

 「はやり唄」から「流行歌」へ。その変化をもたらしたのが音楽ソフトのSPレコードだ。3、4分しか録音できないその円盤は限定的な「はやり唄」を一気に全国区の「流行歌」に広げる革命的なメディアになる。

 流行歌第1号といわれる「カチューシャの唄」はレコード歌謡が「金になる」ことをまざまざとみせつけた。

 昭和2年5月=日本ポリドール▽同年9月=日本ビクター▽昭和3年=日本コロムビア▽昭和6年=キング▽昭和9年=テイチク

 昭和の初めには現在につながる大手レコード会社が出そろった。

 松平とコンビを組むことになる作曲家の江口夜詩(よし)は昭和6、7年ごろの流行歌について次のように回想している。

 「各レコード会社は…流行歌の作曲をする人なら誰でもいいから欲しいというくらいだった」

 「作曲」の部分を「歌手」と変えても同じ状況だった。レコード会社は金の卵の歌手を必死に探していた。

 =敬称略

 (田代俊一郎) 

=2013/03/19付 西日本新聞夕刊=

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