昭和流行歌編<152>松平 晃 秘密のアルバイト

 東京音楽学校(現・東京芸術大学)の松平晃は実家からの仕送りが途絶え、窮地に立っていた。思いあまって2年先輩の増永丈夫に相談した。「どうしたらいいでしょうか」

 東京生まれの増永の実家は呉服屋だったが、大きな借財を負い、倒産寸前だった。同じ境遇の松平の苦悩は痛いほどわかった。

 「収入のいいアルバイトがあるんだが…」

 増永は語尾を濁しながら言った。増永は写譜のアルバイトでは追いつかずに、効率的な収入のレコードの吹き込みをやっていた。それが増永のもう一つの顔だった。花房俊夫、藤村二郎、南一郎…。手当たり次第の芸名を使い、1930(昭和5)年ごろ、民謡など約40曲を吹き込んでいた。1曲で15円(サラリーマンの月給が約40円)。写譜のバイトよりも格段によかった。

 昭和初期、歌い手を求めていたレコード各社が最初に手を伸ばしたのは音楽学校の学生だった。音符は読めるうえに、録音技術、機械が粗い時代だけにクラシックの声量はなによりも魅力的だった。

 松平はレコード会社にコネがある増永に連れられ、テストのためにタイヘイレコードへ行った。

 「私が伴奏しよう」

 増永のピアノで松平はスペイン民謡の「ラ・スパニョラ」など2、3曲を歌った。合格だった。

   ×    ×

 松平も増永も吹き込みのアルバイトをしながらいつも念じていた。

 「学校にバレませんように」

 学校主催の演奏会以外について次のような学則があった。

 「演奏会以外ノ集会に於(おい)テ演奏ヲ為(な)スコト得ズ」

 学則に違反すれば懲戒、停学、放校(退学)の罰則規定だった。とりわけ、秘密の演奏が流行歌になると厳しかった。クラシックに比べて流行歌は低俗、卑俗とみられた時代だった。

 東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に通っていた淡谷のり子が回想するように「流行歌をうたうことは芸術の道を踏み外すこと」が音楽学校の考えだった。

 〈酒は涙か溜息(ためいき)か こころのうさの捨てどころ〉

 増永は「藤山一郎」の名前で「酒は涙か溜息か」(昭和6年、高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)をリリースした。この大ヒットによって学校にバレ、1カ月の停学処分を受けた。松平は流行歌手になるため自ら中退した。淡谷のり子は卒業名簿から抹殺されることになる。

 松平が最初にもらった吹き込み料は30円だった。その金で佐賀の実家に当時では珍しかった水道の「蛇口」を付けた。松平は中退後、蛇口からほとばしる勢い水のように時代とともに流れる。校則違反者の二人は「東の藤山、西の松平」と呼ばれ、人気を二分して昭和歌謡をリードする。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/03/26付 西日本新聞夕刊=

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