昭和流行歌編<153>松平 晃 芸名ではなく変名

松平が使用していた名刺 拡大

松平が使用していた名刺

 松平晃は1932(昭和7)年、ニットーレコードから「夏は朗らか」でデビューした。このときの芸名は大川静夫。同時代の作曲家の竹岡信幸は当時の松平について次のように書く。

 「彼は(レコード)会社を荒らしまくっていた。もちろん、生活のためだったが、美しい声が買われていた」

 キング、パルロフォン=松平不二男

 ポリドール=池上利夫 タイヘイ=小川文夫

 すべて松平の芸名である。東京音楽学校(現東京芸術大学)の2年生で、アルバイトだった。学校の規則ではアルバイト禁止だったが、それを知っての生活のためだった。

 芸名は自分や歌のイメージアップのための戦略の柱だ。だが、当時の松平にとって芸名は学校にバレないようにするための変名、偽名だった。ブラックネームだった。それだけではない。流行歌自体が低俗なものとみなされ、音大生以外でも変名を使った。

 「大川静夫」は故郷・佐賀の実家近くを流れる多布施川への思いを込めたものだ。それ以外は「レコード会社の人が適当に考えてくれた」と記している。使っていた名刺は今も福田家に残っている。松平は冗談気味に語っている。

 「どの会社がどの名前かわからなくなることもあった」

 当時のヒット曲「片瀬波」の歌手、松山時夫も松平晃の芸名として現在でも一部では間違われている。これは別人だ。中には50以上の芸名を持っていた歌手もいて、流行歌史の混乱の一つになっている。

   ×    ×

 〈忘られぬ 花のかおりよ その髪の君が面影…〉

 1932(昭和7)年、池上利夫の名前でポリドールからリリースした「忘られぬ花」がヒットし、アルバイトがバレた。34年に大手レコード会社「日本コロムビア」と専属契約を結び、学校を退学する。ここで松平晃を初めて名乗った。

 松平の名前について「松平の殿様のように偉くなりたい」と語っていたことが一般的に流布されている。この芸名問題について当時、キングレコードの文芸部長だった清水瀧治が詳述している。

 「名前を付けてもらいたい」と問われた清水はその日の朝刊のニュースを思い出した。徳川15代将軍慶喜の四男、厚の妻で、ソプラノ歌手の松平里子が留学先のイタリアで客死した、という3段記事だった。「松平夫人にあやかって松平としたら…満足そうに同意してくれた」と記している。この姓を芸名にしたのは武士の血を引く家系であることのプライドも本人の中にはあったかもしれない。

 「クラシックだけが芸術でない。大衆に愛されるのが芸術だ」

 松平の姓は流行歌の世界で天下を取ることへの、21歳のひそかな決意表明でもあった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/04/02付 西日本新聞夕刊=

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