昭和流行歌編<155>松平 晃 分業制の確立

古賀政男(右)と談笑する松平 拡大

古賀政男(右)と談笑する松平

 松平晃は「忘られぬ花」のヒットで、日本コロムビアにスカウトされて専属契約を結んだ。1933(昭和8)年、いきなり新人ながら古賀政男作曲、西条八十作詞の「サーカスの唄」をまかされたのはいかに会社の期待が大きかったかがわかる。

 〈…とんぼがえりで今年も暮れて、知らぬ他国の花を見た〉

 西条はこの曲を歌う松平の印象を次のように記している。

 「この唄を吹込む当時、かれはまだ上野学校(現・東京芸術大学)の制服を着ていた…レコード歌手として立つことにやっと決心がついて初めて吹込んだのがこの唄だった…見すぼらしい学生服の彼が、その後見る見るギャラント(華麗)な背広すがたのダンディに変化した」

 松平はこの一曲で文字通り、コロムビアの看板歌手に躍り出る。西条は「歌手に乏しいコロムビアは、相当の高給で彼と契約したらしかった」と書いている。

   ×    ×

 現代のレコード、歌謡界のシステム的な形ができるのが松平がデビューした昭和初期である。明治大正のはやり歌と昭和の流行歌を区分するのはなにか。分業制である。

 読み人知らず、作曲者不詳のはやり歌から作曲、作詞、歌手の名前を前面に押し出した分業が成立する。それも専属制である。他社に奪われないようにする囲い込みである。

 松平晃が最初、多くの芸名を使用していたのは専属ではなかったからだ。他社で歌うことに拘束はなかった。専属とはレコード会社に入社することである。社員だ。

 専属制について作詞家の高橋掬太郎は、作曲家では「昭和二年の中山晋平(ビクター)が第一号」で、作詞家は「西条八十(同)」と記している。

 「よほど高く(評価が)買われないと、専属にはなれなかった…名は専属でも、契約の内容は個人個人でちがう」

 「相当な高給」の松平の契約料は本人も記してない。同時期にコロムビアに入社した作曲家の江口夜詩の契約料は支度金2千円、専属料が1カ月300円、1曲ごとの手当30円、印税が1枚4銭。小学校教員の初任給が45円の時代だ。

 同じコロムビアに移籍した当時の淡谷のり子は条件について触れている。

 「専属料として、月300円のほかに、吹込料が30円、印税については触れず、だいたい終身契約の形だった」

 松平の報酬も淡谷に近い数字だった、と思われる。それでも貧乏学生だった松平にとっては破格の厚遇だった。「みすぼらしい学生」が「ダンディな背広姿」に変身するには十分だった。

 この背景にはレコード会社が近代的音楽産業として分業制、専属制を確立したことがあった。レコード会社の文芸部は作詞、作曲、歌手という三つのカードをうまく、そしてしたたかに組み合わせながらヒット合戦を展開していく。 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/04/16付 西日本新聞夕刊=

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