昭和流行歌編<156>松平 晃 曲馬団からサーカスへ

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 ドイツのハーゲンベック動物園を本拠にした世界一のサーカス団「ハーゲンベック」が福岡市にやってきたのは1933(昭和8)年のことだ。

 ゾウ5頭、ライオン12頭、トラ24頭、馬60頭など動物270頭に、団員200人という大サーカス団だった。東京をはじめ福岡など大都市を2カ月にわたって興業した。福岡での16日間の入場者数は21万人を超えた。大テントの内外に流れたのは「来る来るサーカス」と「サーカス(曲馬団)の唄」だった。

 この2曲はこのサーカス団の興業を盛り上げるために制作された宣伝ソングだった。いずれも西条八十作詞、古賀政男作曲。SPレコードのA面「来る来るサーカス」は淡谷のり子が歌った。

 〈空は晴れし 楽し ほがらかに海は鳴る 歌え街の乙女 広重の夢の国へ サーカスが来る…〉

 裏面であるB面「サーカスの唄」はコロムビア新人の松平晃が歌った。

 〈朝は朝霧 夕べは夜霧 泣いちゃいけない クラリオネット ながれながれる 浮藻の花は 明日も咲きましょ あの町で〉

 歓迎の意を込めたA面の歌より、放浪のサーカス芸人の寂しい心情を歌った「サーカスの唄」の方が大ヒットした。このヒットの一つは古賀メロディーにあった。

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 古賀は現在の福岡県大川市生まれ。少年時代の娯楽との出合いを次のように回想している。

 「変化のない筑後の農村で、子供心をときめかせるのは旅回りの劇団とサーカスだった…私は朝から晩までサーカス小屋の前に立ちつくして…まるで夢心地であった」

 古賀少年の音楽体験は唱歌より、ジンタを奏でるもの悲しいクラリネットの音色だった。「『サーカスの唄』の曲想の泉となったのは、大川で子供の頃に見た、あのうらがなしいサーカス団の姿だった」

 松平にとってもこの曲は感情移入しやすかったはずだ。古賀の故郷に近い佐賀市の生まれであり、松平もサーカスは身近な娯楽だった。

 「サーカスの唄」は興業主側が、売れないと思っていたコロムビアから著作権を一括千円で買い上げていた。西条は「むやみに(レコードが)売れたので、あとでわたしたちは口惜しがった」と書いている。

 ドイツのこのサーカス団の興業人気で、それまでの「曲馬団」の名称から「サーカス」という言葉が定着した。曲名にわざわざ(曲馬団)と入っているのはそのためだ。サーカスという新語の普及に松平は一役買ったことになる。

 「サーカスの唄」は現在も歌い継がれる昭和の名曲だ。古賀と西条は「印税を逃した」と残念がったが、松平はお金よりこの曲でスターの切符を手に入れた。
 =敬称略

 (田代俊一郎)

=2013/04/23付 西日本新聞夕刊=

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