昭和流行歌編<161>松平 晃 対抗した二つのコンビ

コンビを組んだ江口(左)と松平対抗した二つのコンビ 拡大

コンビを組んだ江口(左)と松平対抗した二つのコンビ

 松平晃のヒット作「急げ幌(ほろ)馬車」の作曲は岐阜県出身の江口夜詩だ。

 松平は江口に自信に満ちた言葉で言った。

 「先生の曲は、僕以外の者が歌ったら絶対にヒットしませんよ」

 傲慢(ごうまん)ともいえる言葉でもある。江口はこのように語っている。

 「彼はそのように豪語しましたが、まさにその通りだったと思う」

 取材に入る前に基礎資料として松平の戦前の全ディスコグラフィーを作成した。松平は約370枚のレコードをリリースしている。1932(昭和7)年から1941年までの10年間の数字だ。このレコード数を見ても、いかに売れっ子の流行歌手だったかがわかるだろう。

 370枚のレコードのうち、江口の作曲はどのくらいか。115曲だ。つまり、松平の歌のうちその約3分の1が江口の手によるものだ。松平の出世作になった「忘られぬ花」も江口の作曲だ。松平の言葉を裏返して江口の言葉にすれば次のようにもなるだろう。

 「松平の歌は、僕以外の者が作曲したら絶対にヒットしませんよ」

 松平-江口コンビ。そして、藤山一郎-古賀政男コンビ。戦前の流行歌はこの二つのコンビを軸に動いていったといっても過言ではない。互いにライバルとして激しい火花を散らした。

   ×    ×

 古賀は初期の流行歌の世界について「当時の歌謡界には、私の同年配の作曲家はいなかった。世代的にも断層があった」と書く。同世代では無敵だった、ということだ。ところが古賀は「忘られぬ花」を聴いて、うなった。

 「私は容易ならぬ強敵の出現に思わず身構えた」

 古賀は江口との争いを「シーソーゲーム」「よき宿敵」「いい刺激」とも記している。古賀は同じコロムビアに江口をスカウトしたことについて「私の対抗意識を煽(あお)りたて、尻を叩(たた)こうとした」と会社への疑念や警戒心をあらわにしている。

 なぜ、古賀はこのように江口に対して対抗心をむきだしにしたのか。音楽評論家の一人は「その音楽の経歴にある」と指摘する。

 江口は海軍軍楽隊から海軍の委託生として東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学した音楽エリートだ。一方、古賀は明治大学のマンドリン倶楽部の出身だ。乱暴に言えば正統と在野のぶつかり合いだったともいえる。

 作曲界の両雄のせめぎあいは「松平を巻き込んだ」と言うのが先の評論家だ。つまり、俗な言葉で言えば松平をめぐって一時期、三角関係に似た状況があったのではないか、との見方だ。

 結果的には松平は江口を選んだ。または、レコード会社の思惑などもあって選ばされた。古賀作曲の「サーカスの唄」が大ヒットしたにもかかわらず、古賀が松平と組むのはこの歌を含め数曲にすぎなかった。

 =敬称略(田代俊一郎)

=2013/06/04付 西日本新聞夕刊=

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