【信仰×新考 うるおいプラス・心】いかに生きる 宗教者に聞く 浄土真宗僧侶・小池龍之介さん 牧師・奥田知志さん

 ■震災2年 もしもに備えて■

 東日本大震災が発生した直後、誰もが生き方を見つめ直したのではないか。2年が経過しようとする今、私たちは「もしも」に備えて、どんな心持ちで生きていけばいいのか。宗教者2人に聞いた。

 ●浄土真宗僧侶 小池龍之介さん(34) 謙虚な感情 思い出して

 東日本大震災は生き方を変える転機でした。文明のひずみが見えてきました。自然の圧倒的な威力が人間の傲慢(ごうまん)さを打ち砕き、多くの人が謙虚になりました。

 ところが2年たって「マンションは地震の危険が低い土地に買いたい」というような皮相な受け止め方に変わった気がします。人間が「思い知ったり、忘れたり」を繰り返す動物だから仕方のない面もあります。

 まず「人間とは忘れるものなんだ」と受け止める。その上で、大震災2年の節目などに「消費を追求したり、電力をひたすら使ったりする生き方を変えよう」などと考えていた大震災当時を思い出してみる。感情を、その場限りにしないことが大事でしょう。

 仏教には「生きている以上は苦しい」という大前提があります。苦苦(くく)=誰が見ても分かるあからさまな苦しみ▽壊苦(えく)=快感が去った後に襲うむなしい苦しさ▽行苦(ぎょうく)=喜怒哀楽のいかなる感情も心を興奮させ、苦しみを生む-という発想です。

 現代人は「快」を求め、その後の「壊苦」をかき消すために再び「快」を求めることを、ものすごいスピードでしている。どんなに成功しても利益を得ても、維持しなくてはというプレッシャーがやってきます。

 日本人は江戸時代まで自然に寄り添った循環型の生活でした。大震災は「快」が過剰な文明を見直し、昔の美徳を取り入れる転換点だったと思います。脳に快感の信号を入力しすぎると「壊苦」のイライラやソワソワが御せなくなってしまいます。仏教は「快」との付き合い方に慎重です。

 ▼こいけ・りゅうのすけ 山口市の正現寺住職。著書に『3・11後の世界の心の守り方』など。

 ●牧師 奥田知志さん(49) 助けられた人が助ける

 東日本大震災が起きた2011年3月から被災地支援に入りました。宮城県石巻市の小集落で、60代のご夫妻が九州からの支援物資に入っていた「生きていればいつか笑える日が来る」と書いた絵手紙を見せてくれました。「漁船も家も失ったけど今日はこの手紙で生かされている」と。

 ところが2カ月たつと、ご夫妻は「頂いた物を食べてばかり。何のお返しもできない。支援が重い」と言われるようになりました。助ける側と助けられる側が固定化する構図でした。

 考えた末に「相互多重型支援」を提案しました。カキ養殖を復興し、仙台市のホームレスの若者を雇い、消費者はインターネットで購入する。お互いがお互いを助け合うのです。

 宗教でも、助けられた人が今度は助ける人になる。愛されたら愛する。許されたら許す。可逆性が大事です。イエス・キリストは、私の罰を代わりに受けて十字架にかけられた。私が十字架を背負ってイエスに従う時、それは私が負うべき他者の罪の十字架です。

 十字架にかけられたイエスは「わが神、わが神、なにゆえ私を見捨てたか」と最後に絶叫しました。救いのない言葉です。人間が「なぜだ」という場面にこそ神はいる。絶望しても、どう生き抜くか。それが本当の宗教だと思っています。

 聖書に「光は闇の中に輝いている」という言葉があります。被災地には絶望しかないと思う人もいるでしょう。絶望を体験した被災者から話を聞くこと、何かを学ぶことが、ひょっとしたら九州の人に希望を与えるのかもしれません。

 ▼おくだ・ともし 北九州市の東八幡キリスト教会牧師。NPO法人・北九州ホームレス支援機構理事長。

=2013/03/08付 西日本新聞朝刊=

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