手助けできなかった 宮崎で迎え入れ

旧三財国民学校講堂前の疎開児童と関係者たち(南風原文化センター提供) 拡大

旧三財国民学校講堂前の疎開児童と関係者たち(南風原文化センター提供)

牧野田ミヨさん(93) 中山イワノさん(83) 橋口義弘さん(81)

牧野田ミヨさん(93) 中山イワノさん(83) 橋口義弘さん(81)

 沖縄の子どもたちには経験したこともない冬の寒さだったでしょう。校舎の南側に肩を寄せ合ってひなたぼっこする姿が今も目に浮かびます。寂しさと寒さと両方だったと思いますよ。親元を離れてねえ。

 〈1944年9月、沖縄県南風原町の第2次学童集団疎開が行われた。教員や世話役の母親などに連れられた子どもたちは宮崎県内の旧国民学校4校に分かれて荷を下ろした。西都市の旧三財国民学校で、牧野田ミヨさん(93)=高鍋町=は教員をしていた〉

 今ならもっとあの子たちへの接し方があっただろうと思います。若かったし、自分が生きるのに精いっぱいで何もできなかった…。

 〈一部は、日向市の旧美々津国民学校に疎開した。そこには、米軍の上陸作戦を見越して守備隊が駐留。旧海軍の特攻基地もでき、何ごとも軍が最優先だった。中山イワノさん(83)=同市=は、母の話を思い出す。牛の飼料用に小さなイモを山積みに保存していた場所で、朝、仕事に行く途中のことだった〉

 小さな男の子が出てきて「くそひった(用便した)がいいか」と言ったらしいです。ポケットからはイモくずのしっぽがたくさん出ているのが見えたけど、「いいが、いいが」と、とがめなかった。

 〈「食べ物は兵隊に」という雰囲気の中、沖縄の子に食料はめったに分けられなかったと区長から聞いたこともある。食糧難で校庭もイモ畑になっていた。子どもたちが山の開墾に行く途中、沖縄の少女が川でおぼれそうになった〉

 「あれ~、和子」という悲鳴で見ると、頭を川下にして流されていました。「助けなきゃ」と走っていって引き上げたとき「あ~軽い」と思ったのを覚えています。後で「食べ物がなくて思う存分食べられずに小柄なんだ」と思いました。

 沖縄の子どもたちが、割れた一升瓶を大事そうに抱えて海に行くのも見かけました。その時は何も思わなかったけど、後から考えると、調味料がないので海水をくみに行っていたんですね。親に内緒で、うちのみそをあげればよかった。

 〈橋口義弘さん(81)=日向市=も、同校の高学年だった〉

 沖縄の子が来たときは、やせこけて青白くてよ。栄養失調みたいな子ばっかりで、いかにもかわいそうじゃったがね。付き添いの人が、昼間は世間体があるからでしょうね。明るいうちは来んで、夕方になると「なんか食べものを分けてください」と回りよったです。

 〈昨年2月、橋口さんは日向市に学童疎開の記念碑を建てた。南風原町の関係者も参加して除幕式があった〉

 何も手助けできなかったもんじゃから、二度と戦争を起こさんように後世に伝えたいと思っとった。年を取るほどに「なるだけ早く」とあせった。「今んなって」と言う人たちを説得して募金を集めたっちゃがね。南風原の人には気の毒じゃから、募金は頼まんかった。

 〈同年11月、戦後も文通を続けていて亡くなった沖縄の友人宅を訪ねた。沖縄に行くのは初めて。手を合わせ記念碑の報告をした〉

 「あんたたちも苦労したけんど、こげな記念碑を作って平和な世の中にするから」って言いました。沖縄戦のとき、女子学徒が負傷兵のお世話をした旧日本陸軍病院跡も見て、実際に行かんと分からんと思った。疎開しても沖縄に残っても、子どもたちは大変やった。

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