汽笛が鳴る度に涙

学童疎開中にしばしば思い出した故郷の海辺に立つ古田フサ子さん 拡大

学童疎開中にしばしば思い出した故郷の海辺に立つ古田フサ子さん

伊佐市へ 古田フサ子さん(78)

 学童疎開の意味も、行き先の伊佐市のことも何も知らんまま、西之表港から船に乗った。鹿児島港に近づくと「あら富士山が見えた」とたまがった。桜島が教科書で見た富士山とそっくりに見えた。列車は行けども行けども山で、「海はどけやい(どこだ)」って言い合った。海で育ったからね。

 〈1945年3月、鹿児島県・種子島が初めて米軍機に攻撃された。全島の小学2~6年生は鹿児島県伊佐市や姶良市、さつま町などに疎開した〉

 疎開先では母親と幼い子ども2人に義父がいる家庭に引き取られた。初めて白いご飯を食べ、優しくしてもらった。それでも「ボォー」と汽笛が鳴る度に「お母さんに会いたい。あの列車に乗って帰りたい」と家の外に出て泣いた。タマネギやナスなど、嫌いな食べ物も我慢して食べた。

 〈終戦間際、鹿児島市内をはじめ、九州各地への空襲は激しさを増した〉

 空襲警報が鳴る度、教室を飛び出して山に隠れ、そのまま山の中で授業をした。時折、米軍機の編隊が頭上を通り過ぎた。

 何カ月かすると、どういう訳か家を出て公民館での集団生活が始まった。出身集落ごとに集まり、私たちは世話係のお姉さんと一緒に暮らした。他の公民館では赤痢がはやり、亡くなった子もいたと聞いた。

 帰島が決まり、再び訪れた鹿児島の街は変わり果てていた。焼け野原では「不発弾に気をつけなさい」と注意された。港に着いても何日も蒸し暑い倉庫に寝かされ、なかなか種子島に帰る船は来なかった。

 〈帰島は集落単位だった。海上で故障し、4日間漂流して枕崎に流れ着いた船もあった〉

 疎開先のお母さんとは今も、手紙や季節の農作物を送り合う仲。私の第二のお母さんだし、本当に感謝している。今年5月、疎開先の田中小の子どもたちが種子島に来たので、戦争体験を話した。苦しかったけれど、疎開先でよくしてもらった。苦しい時に助け合うことの大切さを、子どもたちには伝えていきたい。 
(鹿児島県西之表市)

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