家族分断された沖縄

おおしろ・たつひろ1925年、沖縄県生まれ。43年に上海に留学し、戦時中は中国で過ごす。67年、「カクテル・パーティー」で沖縄県出身者初の芥川賞を受賞。「小説琉球処分」「日の果てから」など沖縄の歴史や苦悩を描いた作品を多数発表してきた。4月に「レールの向こう」で川端康成文学賞を受賞。 拡大

おおしろ・たつひろ1925年、沖縄県生まれ。43年に上海に留学し、戦時中は中国で過ごす。67年、「カクテル・パーティー」で沖縄県出身者初の芥川賞を受賞。「小説琉球処分」「日の果てから」など沖縄の歴史や苦悩を描いた作品を多数発表してきた。4月に「レールの向こう」で川端康成文学賞を受賞。

「対馬丸」執筆の作家 大城立裕氏

 「行くも地獄、残るも地獄」。対馬丸事件について私が付けたキャッチフレーズだ。攻撃の危険がある海を船で疎開するべきか、戦争が近づく沖縄に残るべきか。親も先生も、国に翻弄(ほんろう)されて非常に苦しんだと思う。これが事件の最大の焦点だろう。

 対馬丸事件を描いた本を出版したのは1961年。遺族会の会長から記録を残したいと依頼されたのがきっかけで、それまでは事件のことをまったく知らなかった。生存者には戦時情報を隠すために箝口(かんこう)令が敷かれ、それが戦後も尾を引いていたからだ。

 取材と執筆をしたのは私を含め無名の同人誌仲間3人だった。資料は何もなく、ひたすら聞き取りをするしかない。生存者を探し出すのも非常に困難だった。

 取材でよく覚えているのは、出航の日にちについて。生存者の9人までが「1944年8月19日」だと言った。ところが10人目に訪ねた女性は、日記を付けていたから間違いなく「8月21日」だと主張した。共通するのは出航時は小雨が降っていたという証言。当時の天気図を調べて、21日だと分かった。資料がないから小さな事実を積み重ねるしかなかった。

 無名の作家3人で書いたため出版にも苦労した。対馬丸など当時は誰も知らない。出版先を探してくれたのも遺族だった。遺族会長とともに、この事件を形に残したいという使命感がよほど強かったのだろう。

 82年にアニメ映画になり、全国的に対馬丸の存在が知られるようになった。沖縄のためにという思いがあったので作品を残せてよかった。

 この事件を、ただの遭難劇だけで終わらせてはいけない。子どもを船で送り出すことを選んだ親。残ることを選んだ親。誰かを生き残らせるため子どもを分散させた家族もあった。その苦しみや悩みの話はよく記憶に残っている。これほど困難な選択を迫られたことは歴史の一断片であり、沖縄戦の一部でもある。

 聞き取りをした中には、箝口令で沈没の事実を話せずに苦しんだ人もいた。自分は帰ったが、よその家の子は帰ってこない。何があったか問われても答えられず泣くしかない。こうした重要な証言を、戦争という大きな枠組みまで広げて考える想像力を持ってほしい。「行くも地獄、残るも地獄」。この言葉の意味をかみしめてほしい。

 心残りは、死んだ人の最期を描けなかったことだ。対馬丸記念館(那覇市)に飾られた多くの遺影を眺める遺族には、その思いが強いと聞く。

 6月23日の沖縄全戦没者追悼式に参列する遺族にも高齢者が増えた。沖縄では法事は三十三回忌までという慣例があるが、ここでは70年を過ぎてもなお続いている。時代の情勢が事件を忘れさせないのだ。

 沖縄からの疎開を受け入れた九州は、あの戦争を沖縄と共有したと言える。対馬丸事件とともに、その意識を思い出して、現代的な沖縄の課題についても考えてほしいと思う。

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