死を覚悟、弟4人のため

島に残留 古元タチ子さん(79)

 疎開が始まっても私は種子島に残ったんです。兄は疎開したけれど、私も行ったら幼い弟4人の面倒を見る人がいなくなる。母は残れば危険だと分かっていたと思う。兄さえ無事なら家は残ると考えたのでしょう。私も自分が犠牲になるつもりだった。子ども心に、なんとなく責任のようなものを感じていた。

 父はすでに出征し、母は島に駐留してていた日本兵の元へ毎日食事を運んでいた。朝4時起きでおにぎりを作って、何時間も歩いて届けた。私は弟たちのご飯を炊いて食べさせた。

 〈沖縄に続く米軍の上陸を予想した旧日本軍は、種子島の守備隊を増強。一時は約1万人の兵士が島内にいたとされる〉

 近所の姉さんたちが山にまきや竹を取りに行くのによく誘ってくれた。私をふびんに思ったんでしょう。持ち帰って母さんが喜ぶ顔を見るのも楽しみだった。

 〈米軍による機銃攻撃が1945年3月に始まった。小規模な攻撃を含め連日のように空襲を受け、死傷者が出た〉

 島には軍の飛行場があったから、敵味方の飛行機が行き交った。アメリカの飛行機は低く飛ぶ。周囲の竹が倒れるかと思うくらいなびいて、ザザーッと波のような音を立てた。弟たちは、友軍機と思って壕(ごう)を飛び出して「バンザイ」って跳ねた。それを連れ戻すのが大変だった。

 終戦を聞いたのは稲刈りをしていた時。もうこれで飛行機も飛んで来ない。海にも自由に行けると思うとうれしかった。 
(鹿児島県西之表市)

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