学童疎開は軍事戦略

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家氏

 沖縄の地上戦突入前、学童疎開は老幼婦女子の避難というより、(1)戦闘の邪魔にならないようにする(2)食料確保のための口減らし(3)明確に示されていないが次の戦闘員確保-という軍事的な戦略として行われた。背景に1937年、日中戦争の本格化の中で改正された軍機保護法がある。

 同法での軍の機密保護の指定地は朝鮮、台湾を含め全国30カ所。北緯30度以南の奄美・沖縄地域も「南西諸島近傍」と指定された。サイパン島陥落数カ月前の44年3月、南西諸島防衛のため創設された第32軍の展開地域は、この指定地域と完全に重なっていた。

 では軍事機密とは何だったのか。それは日本軍部隊の編成動向、軍事基地などの情報だった。沖縄に移駐した第32軍は兵舎不足で学校や公民館、民家などに同居し、住民を陣地(軍事基地)造りなどに駆り出した。住民はいや応なしに軍事機密を知ることになった。

 軍部が当時、住民をどう見ていたかが徴兵検査の業務記録などから浮かび上がる。「軍事思想に乏しい」「国家意識が薄く皇室国体への観念が徹底していない」などとし、防諜(ぼうちょう)には厳に注意すべしと強調していた。信用できない住民に軍事機密を知られたため、「軍官民共生共死の一体化」という県民指導方針を極秘のうちに進めた。軍事機密漏えい防止のため、住民の投降は許さず自ら命を絶つ形になるようにマインドコントロールしたのだ。集団自決という軍人用語が使われているが、最高機密を知ったため軍が集団死を誘導・命令したのが実態だ。

 そして、米潜水艦が攻撃する危険な海域でも、第32軍編成に中国大陸などから兵員を輸送してきた空き船で子どもたちや住民を疎開させ対馬丸事件が起きた。

 あらためて考えなければならないのは、沖縄戦で住民が戦闘の被害者であるにもかかわらず、政府は戦闘協力した戦闘参加者と認定し、ゼロ歳児まで靖国神社に合祀(ごうし)していることだ。

 遺族には52年に制定された戦傷病者遺族等援護法に基づいた遺族年金が支給されており、認定は軍への協力がベースとなっている。兵士に避難壕(ごう)から追い出されて被弾死しても、それは軍に壕を提供した、つまり協力したと見なして認定した。スパイ視され軍に虐殺された人も、戦闘参加者として同年金が支給され、靖国神社に合祀されている。

 援護法制定時、遺族会は戦争犠牲者としての「補償」を求めたが、そうならなかった。国家の戦争責任を追及されないよう、戦争による遺族をからめ捕っている。米潜水艦の攻撃で死没した対馬丸の学童も対馬丸遭難学童遺族給付としてこれに準じた扱いにし、靖国神社に合祀されている。

 沖縄では2008年3月、遺族が靖国神社合祀取り消しを求めた訴訟を起こし、ようやく援護法や合祀問題の背景に光が当てられた。沖縄戦における被害住民が、戦闘参加者として扱われ、靖国神社に合祀されている実態を検証しなければ、戦争できる国に突き進んでいる安倍政権下では同じことが起きかねない。

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