母に黙って手続き、最後の別れに

唯一の遺品となった赤嶺さんの母・カマドさんの写真。手紙に同封されていた写真を修復拡大してもらった

熊本・八代へ 赤嶺善助さん(83)

 父を早くに亡くし、母と妹の母子家庭だった。私は当時、旧南風原(はえばる)国民学校高等科の1年生。「戦争はあと3カ月で終わるから」と、先生から学童集団疎開を勧められた。それなら修学旅行と同じ。本土を見たいと思った。

 家に帰って話すと、母は猛反対だった。一人息子ですからね。だが、私は先生からもらった同意書に内緒ではんこをつき、提出した。母からひどくしかられたが、自分の丹前をほどき、薄い布団を作ってくれた。

 〈和浦(かずうら)丸に乗り込み、那覇港を出港したのは1944年8月21日。翌日夜、敵機や潜水艦の接近を告げる警報ブザーが鳴った〉

 私たち上級生は甲板で寝ていた。その時、初めて「取りかじいっぱい」という言葉を聞いた。船は右に急旋回した。あたりは闇。海をのぞくと、船をかすめ、水しぶきを上げて突進する魚雷2発が見えた。

 船はジグザグ航行を繰り返し、左右に傾いた。僚船(暁空(ぎょうくう)丸)とぶつかり、騒然となった。沖縄に向かって手を合わせ、「助けてくれー」と叫ぶ人がいた。

 その魚雷が、対馬丸に命中したそうだが、私は爆発音も炎も記憶にない。やがて乗組員が教えてくれた。「あれは、やられたよ」

      ☆     ☆

 〈8月24日、長崎港へ到着。対馬丸の姿はなかった。汽車に乗り同月31日、日奈久(熊本県八代市)へ。15校の疎開学童約千人が、22カ所の温泉旅館に分散。地元の旧日奈久国民学校に通った〉

 遊んだ記憶はあまりない。いつも腹が減っていた。食事は「麦飯一つ、ここ(タクワン)二つ」。竹筒を切った椀(わん)に麦飯が入っていたが、底が浅い椀に当たると、悲しかった。授業以外は、いつも野山や海岸に向かい、食べ物を探した。道に落ちているミカンやサツマイモの皮も食べた。

 〈児童数が倍増したため、授業は午前と午後の2部制になった。地元児童が午前中に授業を受けると、疎開組は午後から。翌週は午前と午後が入れ替わった〉

 ある後輩は、机の引き出しに「おなかがすいています。カライモ(サツマイモ)をください」と書いた紙切れを入れた。引き出しには翌日、「食べてください」との走り書きに添え、ふかしイモが一つずつあったそうだ。

 〈沖縄の子どもたちにとって初めての冬は、60年ぶりの大雪だった〉

 初めて見た雪を弁当箱のふたですくい、沖縄から持参した黒砂糖をかけて食べた。夏服しか持ってない子どもも多かった。温泉に入ると、すぐ布団に入った。

 日奈久の人たちには世話になった。だが、道ですれ違うとき、「沖縄人」という言葉に、心を痛めた。学校では寒くなると、押しくらまんじゅうで遊んだが、仲間に入れてもらえず、べそをかく後輩もいた。でも、そのおかげで、私たちの結束力は強まった。

 〈満蒙開拓団の青少年義勇隊に志願。45年4月からは茨城県で訓練した〉

 そこで「沖縄玉砕」を知った。もう一人で生きていこうと決めた。松を削り、燃料用の松やにを集めていたとき、集められて玉音放送を聞いた。解放感からか、その夜、風呂場で鼻歌を歌った仲間がいて、その翌日、中隊長は軍刀を抜き、切りかかろうとした。戦争は、人をみんな鬼にしてしまう。そう思った。

      ☆     ☆

 戦争が終わっても、帰るところは熊本しかなかった。食糧増産に追われる八代の農家で働いた。実の息子のようにかわいがってもらった。

 〈佐世保港(長崎県)から沖縄に戻ったのは終戦翌年46年の11月〉

 南風原では、学校のグラウンドに多くの出迎えの人がいた。一家全滅も少なくなかったが、それでも近所の人が縁者の安否を伝える。だが、私に声を掛けてくれる人はいなかった。

 笑い声が響く集団から10メートル後ろを、私はとぼとぼ歩いた。ようやく見つかった親戚宅で2年間暮らした。道ばたを歩いていて、親子仲むつまじく農作業をしている姿を見ると、つらかった。熊本に帰りたかった。

 〈戦後は船員、タクシー運転手、サトウキビ運搬、菓子の行商、米軍基地関連の土木作業など、いろんな仕事に追われた。定年後の今はランを栽培、出荷している。結婚し、子どもが6人、孫にも恵まれた〉

 妹は壕(ごう)でやけどを負い死亡。母は摩文仁(まぶに)の手前で行方不明になったそうだ。

 日奈久に着いて、2、3カ月後。沖縄の母から手紙が届いた。「善ちゃん、お元気ですか。こっちも元気にやってます」。母は字が書けないので、親戚に代筆してもらったという。母の写真も同封されていて、それが唯一の遺品となった。

 母が送ってくれた写真は、修復して仏間に掲げている。お母さん、言うことを聞かなかった息子を許してください。でも、そのおかげで、家を継ぐことができたよ。そんなことを時々、語り掛けたりします。 
(沖縄県南風原町)

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