恵子ちゃん、つらかったね

山中敬子さん(81)

 〈沖縄から熊本県八代市に集団疎開した学童、教員たち約千人は45年6月、空襲激化に伴い、山間部の坂本地区などへ再疎開した。山中さんの実家は、疎開児童が寝起きする寺の近くにあり、子どもたちがよく遊びに来た〉

 国民学校4年生でしたか。名前の読みが同じ、同級生の大城恵子ちゃんと仲良くなった。校長先生の娘さんで、家族で疎開していた。私たちは公会堂で一緒に勉強し、授業が終わると、縄跳びやケンケンパをして遊んだ。雨の日はお手玉やおはじき。

 夕方になると、うちの祖母は、おなかがすいたろうと、沖縄の子どもたちに麦やアワのおにぎりをあげた。ゆでたトウモロコシを1本ずつあげたとき、ある子は、半分に折って、一つをポケットに入れた。そうか、弟がおったねと、祖母はもう1本あげた。

 ある日、道を歩いていて、マムシにかまれた。恵子ちゃんのお父さんが、すぐに毒を吸い出し、手当てをしてくれて助かった。恵子ちゃんのお母さんには、料理や裁縫も教わった。

 恵子ちゃんはその後、結婚し、2人の子どものお母さんになったそうだ。戦後50年のころ、恵子ちゃん一家が実家を訪ねてくれたが、私は入院していて、会えなかった。対馬丸沈没を今まで知らなかった。恵子ちゃんたちが、どんな思いで九州までたどり着き、沖縄へ戻ったか。私は今まで、思い至らなかった。
(福岡県春日市)

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