兄の死嘆く暇なく 

山城光政さん(80)

 乳牛を飼っていたので、父は疎開しませんでした。そうでなければ家族を率いて行ったでしょう。旧制中学を出たばかりの兄が父の代わりに引率して、家族6人で疎開しました。

 〈1944年8月中旬、沖縄県糸満市から22世帯90人が宮崎県都農町に疎開した。家族、親族そろっての避難だったが、ほとんどの父親は残り、守備隊に取られた〉

 公会堂を借りて暮らしましたが、近くに軍の飛行場があった。「危ない」という兄の意見で、別の地域に移りました。川で水浴びしたり、川向こうの隣町の子どもたちと石合戦をしたりしたのが懐かしい。食事は三度三度あって苦しいとは思わなかった。

 でも、母は大変だったと思いますよ。叔母と一緒に、農家の日雇いに行ったり、鍋や釜を近隣の山間部に行商に行ったりしていました。食べ物を買い込んで、汽車で福岡に売りにいくこともあった。そんなときは姉が家族の食事を作り、みんなで帰りを待っていました。

 〈疎開して1カ月もたたずに兄は召集され、沖縄に戻った〉

 行ってほしくなかったけれど、口には出せなかった。「頑張ってきてください」と家族で見送りました。届かないだろうからと手紙は書いていません。

 〈戦争が終わり46年秋、沖縄に戻った〉

 船が着いた港から米軍のトラックで運ばれました。どこも艦砲射撃で穴だらけ。山は木一本なく、石灰岩がむき出しになって真っ白で驚きました。父も兄も亡くなっていましたが、骨は今も見つかっていません。誰もが同じ境遇だったので嘆き悲しむ暇もなかった。

 〈大工をして現金を稼ぎ、きょうだいを学校に通わせた。母や姉の農作業も手伝い、文字通り、父と兄の代わりに一家の大黒柱として働いた〉

 定時制高校ができると私も入学しました。缶詰会社の宿直、家庭教師をしながら琉球大を卒業し、年齢制限ギリギリで入った県庁に30年間勤めました。父や兄がいたら、さんざん苦労もしなかったでしょうが、自分では悔いのない人生だったと思います。

 〈退職金で実家の土地に家を建てた。そこには父と、まだあどけない表情の兄の遺影がある〉

 戦争がなければねえ。もし何カ月か召集令状が遅れてくれたら、兄はきっと本土の部隊に入って生きていたでしょう。かわいそうですよ。 
(沖縄県糸満市)

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