再会した父、白骨に

金城シヅ子さん(84) 拡大

金城シヅ子さん(84)

金城シヅ子さん(84)

 「帰りたいな、帰りたいな」って皆、泣くんです。私は5歳のときに母を亡くしていて慰められなかった。小学2年の双子の男の子が、おねしょばかりしてました。沖縄より寒くて起こしても布団から出られないのもあるでしょうが、寂しかったのかもしれません。

 〈沖縄県南風原町から宮崎県西都市の旧三財国民学校に疎開し、裁縫室で集団生活した。父を残し2歳下の妹と2人。最年長の14歳だったので料理、洗濯など子どもたちの世話をした〉

 沖縄でも防空壕(ごう)を掘ったりして勉強はしていないです。疎開して何回か授業に出たけど、ほとんどは、子どもたちのお世話。ざるいっぱいのサツマイモの皮をむいて、切って、お米ちょっぴりと炊いたのが朝ご飯。夜もイモ2個。それが続くと喉を通らなかった。

 〈教員に声を掛けてもらうことが心の支えだった〉

 「しーちゃん何炊いたの」「今日はどこ行くね」って話し掛けられると気が晴れました。青年学校の男の先生がお兄さんみたいで、私も「あんちゃんもう帰るの」って言ってね。毎日、先生と笑い合えるのが青春。笑えないはずなのにね。学校のおかげです。

 〈父がヘビにかまれる夢を2晩続けてみた。1945年6月、沖縄戦終結を聞いた〉

 「あれ~、うちのおやじやられたんかな」と思いました。終戦になっても「もう帰れんだろうな」としか思えなかった。だから帰れると聞いてうれしかった。

 〈46年11月、沖縄に戻った。かやぶき小屋をつくり、生き残った妹2人と生活。畑に残ったイモを探して命をつないだ。逃避行の途中に米軍に撃たれて亡くなった父の亡きがらを、知り合いのおじいさんと、仮埋葬されていた糸満市の畑から掘り出した〉

 こんな白い骨になってかわいそうと涙があふれました。「娘が帰ってきたらあげて」と父は時計を預けたそうですが、米軍に捕まったときに取られたそうです。だから、何も残っていません。

 〈19歳で結婚。夫は妹たちも養ってくれた。疎開先を戦後、何回も訪ねた。別の町に疎開した人々からは、いじめや飢えがつらかったと聞いたことがある〉

 あいさつしても無視する教頭先生が嫌いでした。戦後、訪ねたら「悪うございました」と謝っていた。自分がしたこと分かっていたんだね。よその疎開者の中には「恩はないから、何もしなくていい」と言う人もいますが、疎開で命が助かったから感謝しないとね。でも私なんか、ただ心配しただけで本物の戦争は体験してないから。本物を体験した人は大変だったでしょう。 
(沖縄県南風原町)

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